今こそ考えよう 高齢者の終末期医療
2012年8月29日
あなたがしてほしくないことは、私にもしないで

これまで私たちは、欧米豪の高齢者介護施設を紹介しながら、日本の高齢者終末期医療の問題点を指摘してきました。わが国では、家族や医療者の判断で経管栄養などの医療行為が行われています。しかし、当の本人が満足しているかどうかは分かりません。なぜなら、本人は意思表示ができないからです。終末期医療の選択においては、家族も医療者も悩みます。選択した後でも、これでよかったのかと後悔の念に苛まれることがあります。
このような現実を考えると、本人、家族、医療者の誰もが納得する終末期医療を行うためには、リビング•ウイルや事前指示書を書いておくしかないように思います。しかし、これら書類のことを知っている人はごくわずかです。しかも法的に認められたものでもありません。
「患者を見殺しに」
高齢者の終末期医療は、いろいろな問題を含んでいます。1分1秒でも延命させることが使命だと思っている医療者もいます。そのため家族が自然な看取りを希望すると、退院を迫られることがあります。また、ある介護施設の看護師は、自然な看取りの経験を発表した時に、会場の医師から「結局、あなたがしたことは、患者を見殺しにしたに過ぎない」と非難されました。
たとえ植物状態であっても生きている意味があると考える人たちには、自然な看取りは殺人行為にみえるでしょう。訴えられる可能性もあります。
急性期病院では、在院日数を短くするために、胃ろうを造って退院させざるをえない事情もあります。親の年金をたよりに生活しているため、少しでも長く親に生きていてほしいと思う人がいるのも事実です。
Aさんが残した言葉
最後に、92歳のAさんの話をしたいと思います。Aさんが何も食べられなくなったので、娘さんにいくつかの治療の選択肢を提案しました。そのとき、娘さんは「日ごろ母は、延命処置はしないでちょうだい。迷ったら、“あなたがしてほしくないことは私にもしないで”、と話していました」と言いました。この言葉は、今まさに求められている高齢者終末期医療のあり方を教示しているのではないでしょうか。(宮本顕二、礼子)
◇
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- プロフィール
- 宮本顕二(みやもと けんじ)
- 1976年、北海道大学医学部医学科卒業
- 北海道大学大学院保健科学研究院機能回復学分野教授
- 宮本礼子(みやもと れいこ)
- 1979年旭川医科大学卒業
- 桜台江仁会病院(札幌市)認知症総合支援センター長
- ブログは2人が交代しながら書いていきます。
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コメント
老人ホームに勤めています。
私も「自己選択・自己決定」が基本と考えます。
しかし、選択・決定するための材料を持っていない高齢者が多いように感じます。
例えば、食事が摂れなくなったらどんな処置があるのか、経管栄養?点滴?
それをするとどうなって、しないとどうなるのか。
知らない上に漠然とした恐怖も手伝って、敬遠してしまうようです。
知らなければ選択もできません。
「自己選択・自己決定」のため、正しい情報を提供することも医療、福祉に携わる者の役割だと感じています。
おめでとうございます。
胃ろう増設の適応に関して、各学会で慎重を要するコメントが出ていますね。
それらが実行されるのにはまだまだ時間がかかるとは思いますが、宮本先生などが訴えていった結果だとは思います。
読売新聞とはいえ、インターネットでの記事ですから、目にされる方も限られてくるとは思いますが、違和感を感じていることを訴えて続けていくというのは大事なことかもしれませんね。
ところで、先日、宋文州さんがツイッターで仰られていました。
核や軍備をめぐる問題で「結局最後は人間の心の問題だ。引き金を引くのは人間だ。」と。
これって医療にも言えるかもしれません。
ものや技術は人間の判断なしに悪さをしません。
確かに「あったら使いたくなる」のは人のサガで、あるがゆえの不幸というものはあるかもしれません。
けれども、根拠はありませんが、ないよりはあった方が良いと思います。
時に出てくる人間の弱さを封じ込める仕組みを考えていけばいいだけのことですから。
とはいえ、現実にそれを作って実行していくのは大変かもしれないですね。
頑張ってください。
昨年日本に住む両親を亡くしました。胃ろうを付けらていた認知症父の死はむしろ遅すぎたくらいでした。外見を気にしていたダンディな父でしたので、息を吸ってはいてしかない父画本当に気の毒でした。認知症の「お蔭で」、本人は分かりませんでしたが。
その父を「生かせた」のは、母の自己満足のため。父を看ることによって、他人から褒めてもらう以外に生きがいはなかったからです。〔私は「老老介護」に反対しました。)
父は最期まで母に「生き甲斐=存在理由」をあげていたわけでしょうか。しかし、この父の存在理由は母のためであって、本人の為ではありませんでした。母は、こんなことには全くの無理解。「パパがきれいなお尻をしているって何時も褒められているのよ」と嬉しそうな自分のしかありませんでした。
しかし、無理をして看護した為、その母も病気が見つかったときには既に遅し。あっという間に逝ってしまいました、まだまだ十分に残りの人生を楽しめるだけ若い母でしたが。
日本の文化、習慣、宗教などを考えることなく、母を理解することは出来ませんでした。全く普通の生き方をしていても、それぞれの人間にどれほど これらのことが影響しているか、とても考えさせられました。
私自身、海外在住というお蔭で、子ども達も「浪花節的」情緒論はありません。やっと日本のことを心配しなくてもよくなった現在、この国と日本の比較文化のようなことを研究してみようかと思っています。
でも、今は、「疲労回復」時期だと思ってのんびりしています。父母のことが終ったとたん、私のほうが種々の病気です。本当に心と体が繋がっていることを思い知らされています。
こうして最期まで教えてくれた私の親。素晴らしい教師。心から感謝! 私の子ども達のためにも、残りの人生 最期まで自分なりの「いい」生き方をしていきたいと思います。
>・・・まあ、転職も面白いかもしれませんね。
だと思いますよ。
御両親を安心させてください。
それでは。
貴重なコメントありがとうございました。書かれている内容について関心があります。メールで直接連絡をとらせてください。
読売新聞ヨミドクター編集部(yomidr@yomiuri.com )へ連絡いただくようお願いいたします。
「現代日本社会においては」、食べて吐いたものを子供に食べさせるのは「不自然」に相当すると思います(別の社会では自然でも)。
遺伝子導入の技術を用いて、微生物に特定の物質を生産させるのは「不自然」ですが、それによって得られた物質を知識と知恵に基づいて適性に利用するのは「自然」なことです。
言い換えれば、社会=時代や地域によって、自然、不自然の判断・感覚は異なってくるということです。
「常識の範囲内」という言葉がありますが、それに近いでしょうか?
明確な線引きがある場合もありますが、ある一定の幅の中に「自然と感じられる行為」は存在しているということです。
その範囲の中での自然・不自然の判断・感覚は状況によると考えます。
「自然死」という感覚も視点によって変わります。
途上国での死亡原因はたいてい感染症・飢餓です(場合によっては他殺・虐殺も)。
ならば、「自然死」と考えることもできます。
癌や心疾患などの(根本的な意味で)慢性疾患で死ぬのは人類の長い歴史では「不自然死」と考えることもできます。
そんな中で、「現代日本における自然死」を考えれば・・・
まずは、明らかな「自然死」・「不自然死」を決めるのがわかりやすいかもしれません。
宮本先生が提示されたいくつかの状況は明らかにそうでした。
・・・まあ、転職も面白いかもしれませんね。
医者になるのと、やるのと、出世するのに必要な能力は異なるので。
医療って人為的に見えているだけでは?
自然界にあるものの範疇で利用しているだけですから。
動物だって医療をしてます。
草を食べて吐いたり、母が子の便を食べて自ら製薬会社になって乳を与えたり。
一度胃に入れて出して餌を雛に与えたり、まさに胃ろうでしょう。
医食同源でしょうね。皆生物はやってます。
人がやろうとしても自然界に原理が存在しなければ出来ません。
自然から逃れられないから、その範疇でしか施せないです。
日本には同衾用ベットがある医療施設ってないでしょう。
最期に望む際にパートナーと抱き合いながら思いでに包まれながら。
いかに性というものが大事か、オピオイド級の威力です。
男女が慈しみあうという諸外国ならではの自然の二人だけの看取りです。
日本でこれを提唱したら、大変ですよね。風習の違いです。
いつしか人の遺伝子は両端が出来て真核生物になってしまった。
両端はコピーされません。リポゾームがそうしています。
原核生物は環状遺伝子だからそういう事はないでしょう。
今も大腸菌がインシュリンやタミフルの原料シキミ酸を作ってくれてます。
熱水にいる生物の遺伝子を借りてヒトゲノムやフルーワクチン製造を助けてくれてます。
目の前に起きている事が真実ですから、真実だけを見ればいいと思います。
せっかく臨床経験があるのだから、出版社で記事でも書けばと思いますけどね。
何故、コメントが採用されているのか。
アウトローとなれば?と思います。
臨床中に患者さんから「どうも」なんてありがとうと言われてたでしょう?
助けた命、たくさんあったと思います。
その経験を生かした人生もまた、いいものだと感じています。
あなたの文章で救われた人もいるでしょう。
きっと、いますよ。
自信もってもいいんじゃないかな。
その「感じ方」を繰り返したのはわざとです。
読み飛ばしにくくしました。
この連載のキーワードは価値観だと思いますから。
ところで、医療って人為的なものです。
不自然な行為です。
だから、どこまでが自然で、どこからが不自然かを基準にすると判断が恣意的になります。
むしろどこまでが快で、どこからが不快かという発想の方が良いと思います。
おのずと、自分はどの程度の医療を求めるのか考えるようになります。
胃ろうや点滴=悪ではなく、そういったものも含めて医療とどの程度の距離間で付き合うかの問題です。
それを考えてないから、あまりにも不自然な状況に追い込まれるリスクが発生します。
それが「答えは医学にないかもしれない」の意味になると思います。
日常生活と連続している部分が多々ありますので、医学だけで「生命」を完結させるのは無理があります。
こういうオープンな表現の場を与えてもらって、読売新聞さんと宮本先生には感謝しています。
結構きわどい文章もありましたから。
まさか、こんなところで「ありがとう」と言われるとは思いませんでした。
タイトルをみて15年前に義母を見送った頃を思い出したました。夫は一人っ子。相談する兄弟もいません。胃がんの末期、余命3ヶ月と突然言われた82歳の義母をどのよう治療、看護、をしたらよいか迷いました。そして、私達の出した結論は「自分がしてほしいように看取りをしよう」ということです。治療の途中で、家族が決断しなければならないシーンがいくつかありました。その際の基準は「自分がしてほしいように看取りをしよう」です。結果、義母は2週間程で退院し自宅で残りの日々をすごしました。初ひ孫が誕生したことが生きがいにもなり、余命3ヶ月といわれたのにもかかわらず1年近く自宅で過ごしました。看護の素人である私達には少々不安がありましたが、それをサポートして下さったのが、訪問看護制度です。医師、看護師の方が定期的に訪問してくれました。そして何よりも心強かったことは、家での看護が大変になったらいつでも入院させてくれると言われたことです。看護の知識もない私達がよかれと思ってする行為によって、義母が快適でなくなってしまうことをおそれていたからです。結果、義母は息をひきとる一ヶ月までは家族と一緒に食事をし、会話も楽しみました。モルヒネの点滴で痛みがほぼコントロールできていたことも幸いでした。子の看取りが義母にとってベストであったかどうかは知るすべもありませんが、、、。そして私達が義母の世話をしながら、子供たち(息子、娘)にもいいました。「将来私達がしてほしいように介護するから、よくみていてね」と。
返信ありがとう。
まだお若い方という事はわかりました。
>ポイントは、
>物理的な利害(利益)の感じ方と
>心理的な利害の感じ方とその程度問題です。
両方感じ方なので、くくるといいいと思います。前頭葉の問題でしょうから。
臨終はいつ起こるかわかりません。
突然心機能が停止してしまう事もあります。
人は自分有利であろうと思う情報を集めて安心したがり、その情報で命を無くされる方もいらっしゃいます。臨終とは難しい。
難しいなら、人はどこから来たのか?
それをしっかり教え込まれてきました。
臨終は存在しないと。元に戻るだけです。
分子レベルにまで戻るだけ。
アウトローは親族や友人にたくさんいます。
国外にでて、後ろ盾をかえるという事。
帰化して永住権等も取得して医師やそのほかの職について働いています。
永住権だけ取得して後ろ盾の国籍はかえない方法で働いているのもいます。
どうもアウトローしたいけど、いまいちとお迷いでしたら留学などもいいですね。
人生の一時期アウトロー。
日野原先生もそういう経験をなされているかと思います。留学や講演会に招待等うけて、一時環境を変えているので生き方の幅が広い選択が増えるという、良い循環サイクルに入っていると感じています。
物理的利益と心理的利益という考え方もあるのだと、またひとつ選択の幅が増えました。
ありがとう。
16年前 父が倒れた時、嫌がるのを無理やり 経管医療をし、はては 暴れてチューブを外すのを防ぐため、ベッドに繋いでしまった。何年か後、尊厳死協会を知り、そのパンフレットを通して、自分のしたことに深い反省をした。今では妻ともども、協会に加入し、カードを貰い、お互い不自然な最後にはしないように、話し合った。
胃ろう、一部の点滴 等は、避けたい。自然死を以って
最後としたい と念願する。
これらは、要は、人は何のために生きるのか、ということにつながっていくように思います。70を超えてからの衰えを知ってから、その時にどのような対応を求めるか、常々話しておかなければならないことなのだが、その覚悟を持てているのか、を自身に問いかけています。
若き時代に十分に教養を意識することなく怠惰に過ごしてきたことのつけといえます。
が、手遅れにならないように決断しなければと思う毎日です。
我が家の母は、65歳の若さで、病原不明のまま、1年7ヶ月入院してなくなりました。
悪性リンパ腫かもしれないと、抗がん剤治療を受け、髪の毛がすっかりと無くなってしまいました。
抜け初めの頃頭がかゆいから洗髪してとの懇願に、私は臨床検査技師なので、多少は知識も勉強もしました。
でも、洗うとごっそり抜け落ちるのが分かっていたので、抜けた分をゴミ箱に入れながら、洗髪しました。
母にの告知も、父にも、兄、姉が反対だったのでしていませんでした。
大晦日に危篤状態になって、管をあちこちに、つながれ、スパゲティ状態でした。
姉、父、私と3人で交代で病院に夜、付き添うことになりました。
IVHを入れ、ラシックスで利尿して、身体はパンパンに脹れて、自分で足をベッドの中で動かせなくなりました。
姉と私の子どもは、まだ幼稚園で、あっちの家、こっちの家と行き来することで、情緒不安定になりました。姉も教員で、仕事を休むことも出来ず、精神的にも体力的にも大変きつい思いでした
僕は新研修医制度の出で、2年間の研修中とその後のアルバイトでの病院・老健施設で一般の人よりは多くの生死の境(御臨終)を見ました。
放射線科医として御臨終に立ち会ったことはほとんど無いです(治療医の当直手伝いの時くらい)。
僕自身は放射線科医としてはアウトローです(放射線科医の名誉のために?)。
ポイントは、物理的な利害(利益)の感じ方と心理的な利害の感じ方とその程度問題です。
医者はサービス業と書きましたが、それは医者の一面に過ぎませんし、個性があります。
真の奉仕者もいれば、守銭奴もいます。
それは患者さんや家族についても同じでしょうし、同じ個人に関しても複数の顔を持っていることは稀ではないでしょう。
但し、サービスと金銭のやり取りをしている部分を無かったことにするといつまでも真実にはたどり着けないと思います。
依存文化と集団主義は、説明が難しいですが、自分より組織としての判断を大事にする感覚でしょうか?
欧米文化がいつも正しいわけでもなく、幸せな死に方を選ぶにはオプションとして有用であるという考え方が正しいと思います。
恋を例にあげながら、医療もサービス業とご説明ありがとうございます。
利益が一致しないとは、金銭が元で臨終を迎える患者と家族がいるとは知りませんでした。
利益と自立の関係とはどのようなものでしょうか?自立すると臨終が安らかに迎えられそうなので参考にしたいと思います。
高齢者看取る事を何回も経験していたのですが、放射線科の方が詳しいとは。
ご高齢の方々が依存文化・集団主義が強かった日本で過ごしていたから欧米文化をとり入れるのが難しい原因だったのですね。
日野原先生もきっと参考になさると思います。
できれば具体的に依存文化と集団主義を知りたい。
そしてどの位の期間、高齢者介護施設での経験がおありなのでしょうか。
是非ともお聞かせください。
高齢の両親はじめ、わたくしも高齢になる身ですから。
病院で臨終の際に放射線科の方が同席しているとは気がつきませんでした。勉強になります。
「恋なんていわばエゴとエゴのシーソーゲーム」って昔流行った曲にありましたが、恋に限らず潜在的に個人と個人(あるいは集団)の利益(エゴ)はぶつかります。
物理的利害と心理的利害が絡み合っています。
本人、家族、医療従事者。。。
医療従事者は患者さんや国からお金をもらって生計を立てているサービス業とその利用者の関係なわけで、物理的利害対立は存在します。
(開業医向けの冊子の見出しに 集患の方法 とかありますよね)
本人と家族の希望が必ずしも一致するわけではありません。
(家族のお世話をするのが幸せな人ばかりでもないと思います)
そういう意味で自立意識は大事だと思います。
(普段からの人間関係の構築・蓄財も含めて)
とはいえ、依存文化・集団主義が強かった日本の高齢者がそういう欧米の文化をうまく取り入れていけるかどうかは難しい問題ですね。
物凄く、ストンと胸に落ちました。
医学、医療関係者に頼りすぎですよね。
神様じゃないんだから。もとは同じ人間。
願わない治療を受けたくない人は、自分で考えて、家族に周知するなり、書き残すなり、自己防衛するしかないかもしれません。
3.11のように、延命だの、治療だのと選べないで旅立った方たちの事を思うと、贅沢な悩みですよね。
>Aさんが残した言葉・・・
Aさんを育てた御両親はすばらしいです。
考えよう。まさにそうですけど。
深く考えてもいけないし、浅すぎても。
丁度良いところは難しいものです。
丁度良いという観念もまた欲望ですね。
あなたがしてほしくないことはしないで。
鏡に問いかけるみたいな感じです。
あなとと言われている本人は自分の事ですから。問いかけているほうが、あなたです。
こういう問答をしながら、前へ前へと進む事は大事な事だと思います。
自問自答とでもいうのでしょうか。
相手を憎む事は、自分の脳を使う事なので楽なようで苦しいけど、何故かそうしていると、今の自分の苦しさから逃れられますよね。
脳がひとつという事なので同時に二つは出来ない事を利用して苦難を乗り越えた先人達はすばらしいと思います。
何故、そういう事に気がついたのか尊敬に値します。
歳を経る毎に、その経験から気づきというものがそなわってくるのでしょう。
高名な方はさて死のうと床について寝るそうです。死という事に関心が無い。
相手を想う、それに尽きます。
観という事に翻弄された時、溺れている。
無心になれば何も起こらないとはよく言ったものです。色即是空という言葉に変換されていますけど、音写されている4文字。
大したものです。
これを聞いた事を覚えていて後に書に落として残した人類は。色、医療でいえば観でしょう。
先週初めて出会ったサイトだったのですが、今回でこのシリーズが終了…とは残念の至りです。
周囲を見回しますと、私自身も含めて高齢者ばかりが目につく昨今です。特に私達はシニア村に住んでいるので、それを実感することが多いのかもしれません。
ここは、55歳以上の人達にしか居住が認められていない、総数1900余軒のゲイトコミュニテイーです。
夫婦の場合でも共に55歳以上でなければなりません。1戸は2又は3ベッドルームの約40坪ほどで長屋形式の家もありますが、殆どは平屋の一軒家です。
車社会ですからガレージ付きです。クラブハウスでは、色々なクラスがあり、また数多くの年中行事もありますので、老人村の中だけでも楽しく過ごせますが、隔離状態ではなく並みの街の中にあるので、病院は勿論、買い物他何をするにも便利です。
多分私達夫婦にとりましては、人生最後の我が家になるだろうと考えておりまして二人そろって元気な間はここにむ予定です。
私達自身と子ども達のためにリビングウイルと共に延命処置をしないことを希望している旨を州の定めに従い公的に登録もしております。
こちらは契約社会ですから、愛する子ども達が殺人犯にされることなく私たちの願いを適えてくれるためには法的な処置が必至なのです。この後は、認知症に冒されたり骨折で寝たきりになって子ども達に迷惑をかけない生活が最期までできて欲しいと切望しております。
今後老人介護をはじめ、老人関連の仕事が増え続けることでしょうが、私達がが子ども達を育てたように、愛され惜しまれて人生の最期を迎えたいものだと願っております。
敷地も広大でゆったりした町並みが日本には、例のない規模の老人村だと思います。
近くには老人村が独立した市になっている所もあります。宮本先生にはご夫妻で視察旅行にお来しになりませんか?
タイトルの言葉は孔子その他の思想家・宗教家が口にすることと同じですね。
特に高齢者・終末期医療において、個人の価値観が治療方針を左右しうるわけで・・・・
何を持って「治療や人生のゴール」とするかが大きな問題になります。
これは高野先生の記事にも通じるところがあります。
本文中で引用されている看取りの発表の内容は分かりませんが、反論した医師は「自分の価値観」でのみ判断しているのだと思います。
それに反論しようと思えば、「それは価値観が違う」が良い返しでしょうか?
「見殺しにした」というのは、ある価値観でいえば真実です。
そんなに大きくない治療で大幅な病状・健康状態の改善が認められるならそうでしょう。
また、「改善が見込めなくても目に見える努力の証拠を残すことが善」という価値観であれば、やはりそう考えるのは自然です。
しかし、ある延命治療を望まない高齢者が望んだ自然死であるならば「見殺し」ではないと思います。
そういう根本的な発想の違いは、価値観・死生観に直結しており、答えは医学にはないかもしれません。