今こそ考えよう 高齢者の終末期医療
2012年6月20日
欧米にはなぜ、寝たきり老人がいないのか
ヨーロッパの福祉大国であるデンマークやスウェーデンには、いわゆる寝たきり老人はいないと、どの福祉関係の本にも書かれています。他の国ではどうなのかと思い、学会の招請講演で来日したイギリス、アメリカ、オーストラリアの医師をつかまえて聞くと、「自分の国でも寝たきり老人はほとんどいない」とのことでした。一方、我が国のいわゆる老人病院には、一言も話せない、胃ろう(口を介さず、胃に栄養剤を直接入れるため、腹部に空けた穴)が作られた寝たきりの老人がたくさんいます。
不思議でした。日本の医療水準は決して低くありません。むしろ優れているといっても良いくらいです。
「なぜ、外国には寝たきり老人はいないのか?」
答えはスウェーデンで見つかりました。今から5年前になりますが、認知症を専門にしている家内に引き連れられて、認知症専門医のアニカ・タクマン先生にストックホルム近郊の病院や老人介護施設を見学させていただきました。予想通り、寝たきり老人は1人もいませんでした。胃ろうの患者もいませんでした。
その理由は、高齢あるいは、がんなどで終末期を迎えたら、口から食べられなくなるのは当たり前で、胃ろうや点滴などの人工栄養で延命を図ることは非倫理的であると、国民みんなが認識しているからでした。逆に、そんなことをするのは老人虐待という考え方さえあるそうです。
ですから日本のように、高齢で口から食べられなくなったからといって胃ろうは作りませんし、点滴もしません。肺炎を起こしても抗生剤の注射もしません。内服投与のみです。したがって両手を拘束する必要もありません。つまり、多くの患者さんは、寝たきりになる前に亡くなっていました。寝たきり老人がいないのは当然でした。
欧米が良いのか、日本か
さて、欧米が良いのか、日本が良いのかは、わかりません。しかし、全くものも言えず、関節も固まって寝返りすら打てない、そして、胃ろうを外さないように両手を拘束されている高齢の認知症患者を目の前にすると、人間の尊厳について考えざるを得ません。
家内と私は「将来、原因がなんであれ、終末期になり、口から食べられなくなったとき、胃ろうを含む人工栄養などの延命処置は一切希望しない」を書面にして、かつ、子供達にも、その旨しっかり伝えています。(宮本顕二)
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- プロフィール
- 宮本顕二(みやもと けんじ)
- 1976年、北海道大学医学部医学科卒業
- 北海道大学大学院保健科学研究院機能回復学分野教授
- 宮本礼子(みやもと れいこ)
- 1979年旭川医科大学卒業
- 桜台江仁会病院(札幌市)認知症総合支援センター長
- ブログは2人が交代しながら書いていきます。
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コメント
「延命治療拒否宣言書」というのをつくりました。
基本的な意思表示だけでなく、個別の対応事項もかいておきました。
AHNについての記述を抜粋すると
「AHN : 摂食嚥下困難となった場合は、AHNを実施しないで下さい。経口摂取できる状態までを人としての尊厳の限界と考えます。以上がどうしても受け入れられない場合は医療機関を変えるか、ホスピスか、在宅か、最小限の末梢点滴かを選択して下さい。
回復の可能性があり、回復後は抜去する前提で一時的処置の場合のみ実施して下さい。
外傷や脳血管疾患などにより急激な重度の障害を負った場合は意識障害のまま生存を長引かせるものですから、実施しないで下さい。」
こんな感じです。
いざとなったら、気が変わる可能性もありますけど、こうありたいです。
がんの末期とか予後の予測ができるものは、可能でしょうが、脳疾患のように予測できない場合の線引きはむずかしいでしょうね。
事前に書面化するむづかしさを感じます
かねてより延命治療はしないと公言していた81歳になる父は、6年ほど前(元気な頃)に「いかなる病気でも延命治療しません」と、書面に書き残していた。しかし昨年の12月から肺炎の為に入院した病院で今年になって嚥下性肺炎を再発し、医師から今後点滴が出来なくなったら中心静脈栄養をするかどうかと聞かれた。迷った末、本人に「もし口から食べれなくなってチューブで栄養をとらなきゃならなくなったらどう思う?」と聞いた所、「食べなきゃ死んじまうんだから(カテーテルも)しょうがないだろ。(治療の)つらさと(生きる為には必要だという)我慢のバランスだ。」と言った。その時の父はほぼベッド上での生活となり、見守られつつペースト食を自力で食べ、少しせん妄の症状も出ていた。そのコメントから一ヶ月半過ぎた今、転院した療養リハビリ病院で嚥下機能は更に低下し、ミキサー食でもむせが出て、食事中に吸引されることもままあって、完食できないときも出てきた。ひどく痩せてきておりもはや骨に皮がついているような状態である。意識もぼんやりとしているようだが、家族が付き添ってしばらく話しているとハッキリとしてきて表情も出てくる。今の医師から「経口摂取では誤嚥の可能性が高い。胃ろうをしても回復は望めないだろうが、どうしますか」と聞かれたが、むせながらも頑張って食べている父の姿を見ると、ミキサー食であっても口から食べれているうちは口から食べさせて下さいと答えた。この判断でよいのだろうか、それとも今一度本人の気持ちを聞いた方がよいのだろうか迷いは残っている。
元気なときの意思と、実際自分がその状況に置かれた時、目の前で2つに分かれた道のどちらを選ぶかの答えは一致するとは限らない。人間は本能として生きようとするからだ。
欧米はお金がないと希望する医療が受けらない。
日本の高齢者医療福祉制度では自分がどのようにエンドステージを過ごすが選べる現状がある。(自己負担最小限で)
この点は非常に恵まれている。
日本のメリットを最大限に生かすためには、延命したいか、したくないか、本人が判断できるうちにすることが必要だと思う。
しかしながら自分がどう生きたいかを考えずに(考えてると行ってもちゃんと書面に残してない怠慢)日々過ごしている人多すぎる。呆けて縛られてただ生かされている多くはそういう人。
自分の人生を他人に依存している結果だと思う。
先進国の他国では自立して自分らしく生きることがステータス。
日本の高齢者は(年金世代になったら)終末期についてもっと学習し、考えてほしい。
だって自分の人生ですよ。
私は20年ほど前に、10年間ほど母の介護をして、母は晩年2年近く、鼻腔栄養になり、胃ろうの方が楽だからそうしたほうがいいのでは、と医師から提案されましたが、そうしないうちに、入院先の病院で肺炎になり、亡くなりました。
肺炎になったときは、呼吸が苦しそうなので、気管切開をしたら呼吸が楽になるから一時的に切開しましょう、ということでしましたが、呼吸は全く楽にはなりませんでした。
気管切開をしても息が苦しそうなのを見て、私は母に本当に申し訳なく思いました。
してもしなくてもいい切開なら、しないほうが母は楽だったのですから。
私は、自力では歩くことも話すことも食べることもできない母に長生きをしてほしいとは思いませんでしたが、病院は、患者がどんな状態になっても生かそうとするわけで、その考え方とは衝突もしました。
そんな経験から、母のような状態になったら、自然の生に任せるべきだと思うのです。
少なくとも、私自身は自力で生きていくことができなくなったら、それが私の生の終わり、という風に考えていて、その旨を文章にしてあります。
尊厳死協会に登録という方法も知っています。
今生を生きていることだけが全てと思うこと自体が狭い考えでしょう。生まれつきのハンデや天才的才能が有ったり無かったりするのが何故なのか、どこから起因するのかよーく考えれば判る人には今からでも解りますよ。
介護士をしています。胃ろうで認知が進みほとんど意思の疎通ができないまでに、生きていることは本当はその人にとっても大変だと思います。
60歳以上になれば遺言状を作成しておく事を考えますが、しかし延命か否やはあくまでも本人の意思で決まります。
日本では高齢者の介護制度が徹底していますので個々の高齢者が延命についてあまり考えるような立場、雰囲気に無いのではと考えます。
其の延長がひどい病気にかかり病院で機械に助けてもらいながら生き続けるか、又認知症で判断が出来なくなり、これ等の病気も皆さん、又家族に迷惑をかけていると言う事が判らなくなっているのではないでしょうか。この事はやはり早い時期に自分の将来像を
早めに決めておき、其の意向を少なくともお医者、親族に伝えておく事です。
私は皆さんに迷惑をかけるのは嫌ですので延命はやめてもらうように遺言書に内容をサインしました。 私のワイフも同意見で
サインを完了しました。
米国 シカゴ郊外
トニー
治る見込みのない生かされるだけの治療は一切望まないし尊厳死を選択出来るならそうしたい。
脳梗塞で意識障害を負った父は高栄養の点滴と排泄のチューブ、オシメを付けられ一年半寝たきりで亡くなった。
目の前で手を叩けばその音に反応する。痰を取り除く処置で吐きそうに喘ぐ。テープの痒みを感じているのかチューブを外そうとする。
しかし父という人格はそこにはいなかった。洞のような父の目が悲しかった。
父はものも言えず意思も伝えられずただ生きてるだけの自分をどう思ってたんだろう。今でも考える。
家族のことでも、そういう事態になったとき本人が何を望んでいるのか推量することは難しい。
まして意識の無い本人に代わって治療を選択するべきか、しないのか、何を選んでも後悔はあると思う。
家族の精神的な負担を減らすためにも「その意思」を文章にして残しておくことは意味のあることと思う。
保険証の裏に臓器移植の意思を記入する欄があるが、延命治療の意思を記入する欄もあればと思う。
義理母は一昨年昔患った乳がんを原発とする脳腫瘍でOPをして、どんどん衰弱意思の疎通が無くなっていきました。
家内と姉妹が面倒を見ていて、あなたは来なくても良いですよとの言葉に経過だけを聞いていました。
胃ろうにしてから急激に体力が落ち、家に帰りたいとの希望もかなわず(脳のせいで)意識もだんだん無くなり、昨年夏に亡くなりました。
人の考えは変わります(遺言も書き換えるそうですよね)家内はしきりに後悔を言います。
家に連れてくればよかった胃瘻は駄目ねと...。
私も死は怖いですが、死に方よりも生き方なんて思っていますが、生き方がそこそこだと最後は死に方になります。
おむつをして嬉しい人はいないはずです。きちっとしていた人程生かされている状態、家族に迷惑をかけていることが無念なのではないでしょうか。
このサイトはいろいろな意見・体験談があってとてもためになりました以前から考えていたことが明白になってきました。
若い頃からペットが死んだ時動物は食べられなくなったら死という漠然と感じていたことが、人間も同じではないかといきなり重なりました。
介護を長くした人からよく聞くのは「大変でした」です。
亡くなってからよく聞くのは「楽になりました」です。
すみません長くて。
私は助からない(治らない)のであれば自然死を望みます。
この2行だけでよかったかも) 。
貴重な情報をありがとうございます。
このサイトに出会えてよかったです。
食べられなくなった患者はそのまま眠るように亡くなる。
それが一番よいと、私も思います。
私の祖母は、90歳の頃に脳梗塞で倒れ、
そのまま胃瘻につながれ、その後10年以上延々と生きています。
目は開けていますが、全くの反応なし。
こちらが話していることがかっているのかどうか。
明治生まれで頑強にできているのか、今も色つやがよいままです。
つながれた当初、自分ではずそうとしたので、手に網をかけられました。
あれは、「はずしてほしい」という本人の意思表示だったのかと思います。
「誰の世話にもならない、いつ死んでもいい」と豪語していた祖母でしたが、
祖母の息子である父と叔母(父の妹)は先日亡くなり、
祖母の病院に着替えを届けてくれている伯母(父の姉)もだいぶ弱ってきました。
子ども達が亡くなっても、祖母は延々と胃瘻につながれて生き続けるのでしょうか。
私の母であったら、「はずしてください」と言うだろうと思います。
ただ今は、祖母に着替えを届けることが生きがいとなっている伯母の気持ちを尊重して何も言いませんが。
私は本質的には、医学の力を借りないと生きていけない状態となってしまえば、
(明治だったら亡くなっていたはずですから)もう生きていないも同然だと思います。
してもムダな延命治療をしないだけでないと思います。
1)自立のためのリハビリを行う。(介護状態を短くした方が経済的にも得)
2)本人の自立しようとする意志が日本人より強い。(病気でも同じ。よくなろうとすれば自立出来る)
3)自立が可能な家に改築・器具も豊富(例:車いすは一人に用途によって。従い何台もある。)、
4)人海戦術とも言える介護体制がある。(大半は自立するので介護対象が少ないので出来る見たいですね)
議論するまでもないことが,延々と議論されているような気がする。
ポイントは2点のみ。
・終末期医療とか延命医療とかの医療形態は,本人が自由に選択するべき。
・経口摂取ができなく回復の可能性が低い人への医療は,公的医療保険の対象から外す。
重度の認知症でCOPDだった祖父は延命治療(胃瘻、点滴)の末に入院先の病院で亡くなりました。
最期の2ヶ月は食事は胃瘻と点滴、排泄はオムツ、寝たきりで手を拘束されていました。
祖父の介護に関わりながら感じた事は、本人が延命治療が嫌だと心の中で思っているだけ、家族に口頭で伝えているだけではダメだということです。
本気で嫌だと思っていることを直筆で書面に残し、捺印し、家族にも同意させてその旨を一筆書かせておかなければ、実際問題、本人の意志は尊重されにくいと思います。
上のコメントで、ご本人の意思を尊重された家族の方はすごいです。
私の家族は死生観が未熟で、そうできませんでした。
延命治療をするか否かの判断を迫られたとき、家族は感情的になっていて理性で判断を下すことがとても難しいです。
本人が意識をなくす前に「延命治療は嫌だ」と話していても、「どこまで本気だったかわからない」「一日でも長く生きてほしい」「治療を諦めたくない」と本人の意思を無視して延命治療を選んでしまうのです。
医療制度の問題もあるとは思いますが、制度や社会を批判しているだけではダメで、自分がどうしたいのか、どこまでの延命治療なら受け入れられるのか、形に残してしっかりと意思表示しておくことが大事だと思います。
日本の医療は発達し、誰もが保険制度を利用して高度医療を受けられる建前になっていますが、私は早急に、過度の延命治療は保険適応外にすべきではないかと思います。
全額自己負担なら、長生きしたい人、させたい人がどれだけ延命治療の決断をしても自己責任、個人の判断でよいのではないかと思います。
国の財源で高齢者の延命治療が行われていることに疑問を感じます。
老人の延命措置がいいか悪いかというのは、論点が違う気がします。
老人でも回復する可能性が高い場合と、そうでない場合により、当然、選択は変わるでしょうし、
いい悪いという論議は成り立たない気がします。
必要なのは、その医療を受けることにより、今後どうなるのか?回復するのか?といった
医療関係者の説明と、本人家族の理解ではないでしょうか?
これは年齢に関わらず、必要なものです。
私も以前そうでしたが、治療や投薬を受ければ治るという漠然とした思い込みがありました。
しかし、治療や投薬をしても治らないどころか、苦しみを継続させる場合もあります。
こうした部分の説明、理解が本質の部分であり、延命治療が良いか悪いかではないように思います。
七回忌が過ぎました。主人は肺がんから転移した 悪性の脳腫瘍で最後は全盲になり、真っ暗な闇の中 小さい子供の成長をみれないまま なくなりました。
開頭手術を根治できるかもといわれ 3回しました。見えなくても命を、と信じていましたが.....
その日が刻々と近づく中 私はつねに覚悟を決め 後悔のないようにすごしました。
そんななか食べられなくなってきたときに、胃瘻をしますか?、また 半分昏睡状態の原因の時には 薬により一時目覚めるかもしれないので薬を投与しますか?と言われました。当然すべてお断りしました。
今の医療は 特に高齢者に対しては 責任がなさすぎると思います。助けるだけで そのあと 助からなければよかったと思わせる状態の高齢者がなんと多いことでしょう。
生きるということの根本をおきざりにして、ただ息をしてる状態でもよしとしてる現実をあちらこちらで見ます。
私は 自分の死に際をきちんと何かの形であらわしておかないと それこそ生き地獄の老後になってしまいそうで怖いです
福祉 介護保険 社会保障を考えながら今の医療についてもぜひ考えていかなければいけないと思います。
人間生まれた時から 天寿全うするべく死に向かい生きていくのですから。
ゴールを忘れている高齢者をつくる医療 やみくもにゴールを遠ざける医療では、ダメたと思います。
高齢者における措置に対しては、もっとその人の立場に立って考える医療にしてほしいです。(手術をしても QOLが著しく損なわれるのならば きちんと告知するとか、ただの延命措置に近い対処ならばその旨を本人に伝えるとか、かなり欠けています、現実私の父は手術して、今は後悔らしいです。やっとこ生きている状態の超高齢者です)
基本的には胃瘻反対の考えですが、「考え方は人それぞれ」ですので強制は出来ません。
そこで、胃瘻の対象者が認知症で無い場合にはご本人の意思を第一に考える事が重要だと思います。
認知症の場合はご家族の判断に成りますが、「胃瘻をしてでも生きていて欲しい」という情熱を持って居られるご家族なら介護も苦に成らないと思いますので、「公的な介護施設(特養や老健)の入所禁止」(ショートステイやディサービス、訪問介護・看護は可)等の制約をつけた上で選択をして頂いては如何でしょうか?
母親を去年の6月に脳梗塞のグレード5という最悪の状態で入院しました。年齢は86歳、運ばれた時は心肺停止状態で手術も出来ない状態でした。先生からはこのままゆっくりと心臓が止まってなくなりますと言われましたが、翌日少し血が引いて手術が出来る状態になりました。しかし、手術をしても意識は回復しないですがどうしますか?という医師の質問に、家族としては温かいだけでも良いので生きていてほしいと伝え手術をしてもらいました。その後口にチューブが付いて、人工呼吸器や頭に管がたくさん付いていました。日にちが経つに連れて目が開いたり、左足が動くようになったりして、2週間後には自発呼吸も始まり2ヶ月後には胃ろうのチュウブが取付けられて車いすに座れる位に回復しました。その間毎日口の中を刺激して衛生的に保つためブラッシングを欠かさず毎日しました。リハビリ病院に転院した後、3ヶ月ほどで食事の訓練が始まり退院する頃にはほぼ食事がとれるようになり、歩行訓練も毎日しています。今1年3ヶ月経ちましたが携帯電話で毎日メールが来ます。表情も豊かで、まだ階段は登れませんが、ほとんどもとに戻りつつあります。母親も看護士だったせいか無駄な延命治療は要らないと言っていましたが、無駄ではありませんでした。あのままあきらめて何もしなかったら死んでいたと思います。今、元気になったのは胃ろうや無駄な延命治療のおかげです。
介護しているものですが 寝たきりになった人達の思いなど無視してただたんにそのとりまく家族の思いだけで生きながらえている気がしてなりません。
家族の自己満足? つーか 年金等 自分がこうなったらどうなのか? 自分の身になって考えてほしい課題だと思います。
多くの視点で多くのご意見があり、思わず読みいってしまいました
自ら看護師としても働き、看護教員として多くの施設に学生を連れて行く立場からの感想です。
人の尊厳がとわれるこの時代となっても、マンパワー不足を理由に、なによりも効率よく業務をこなすことを優先する医療・介護施設がいまだに多く存在します。
胃ろうや点滴などのチューブ類を抜かれないように手足を拘束したり、車椅子から勝手に立ち上がって落ちてころばないように車椅子に縛り付けたり・・
高齢者の体やそして心でさえ、刺激を受けずに動かさないでいればすぐに萎えていってしまいます。拘束してほったらかしておけば、いとも簡単に高齢者は寝たきりになり、その人の生きる力さえ奪われてしまいます。
寝たきりの高齢者は寝たきりに”なっている”ではなく寝たきりに”させられている”のだと思います。
私には、今の医療、社会を批判したり、ここで的確に意見を述べる力はありませんが、看護教員として「寝たきり高齢者を作り上げていくことは看護ではない」という当たり前のことを当たり前にしっかり考え続けていける看護学生を育てていきたいです。
医療において絶対必要として胃ろうを増設するケースもある。
しかし、末期老人医療に関しては日本医師会と厚生省の利潤も絡んでいると思える。自己表現をまったくできない高齢者が、チューブで生かされる現実を見ると、人間の終わりはどうあるべきかを本当に考えさせられる。医療関係者の重労働と賃金の安さも課題としてある。
スポーツやフィットネスの世界でコンディショニングコーチを生業としています。近年、介護予防の筋力トレーニング指導を依頼されるケースも増えてきて、デイサービスセンター等の施設を訪問する機会も少なくありません。
現場で働いてあるスタッフの方々や経営者の方々にお話を伺うと、高齢者の終末医療問題は殊の外深刻であると認識せざるを得ませんでした。しかし、この記事を読ませていただいて、先進諸外国の事例に学ぶことは多いと感じました。
欧米にも寝たきりはいますが、医者が診ないだけです。
スウェーデンでも寝たきりはいます。bedridden bed ridden で検索すると寝たきりはいないというのは伝説であることがわかります。。
アメリカなど寝たきりになって老人ホームに入ると月1万ドル以上かかるのでほとんどの人は仕方なく自宅で過ごし、死んでいくだけです。
アメリカとか入院、治療費がかかるので医者が診ていないだけです。よく寒波、熱波で何百人と死んだことがニュースになっていますが、あれのほとんどは自宅で過ごす寝たきり老人らしいです。
日本で熱波、寒波で3桁死んだら大騒ぎでしょうね。
意識がしっかりしている時点での、本人の意思が無視されて胃ろう造設などの処置が
行われるという件。
現在高齢の方の中には多額の年金を受給されている方もおりまして、不況ということも
あってか家族がそれを頼りにしているという場合があります。つまり入院費を払っても
まだそれなりに手元に残るというケースです。「本人は胃ろうだとか人工呼吸器だとか
そういうのは拒否していたんだけれど・・・どうか胃ろうを作って長生きさせてもらえませんか」
と家族に依頼される場合があります。
患者さん本人が書面で意思を残していたなら、「いいえ、本人の意思が最優先ですから
胃ろうは作りません」として、自然な経過に持っていくことができます。
しかしそのような書面などがなかったとしたら?
もし家族に「胃ろうという栄養方法があるにもかかわらずそれを行わず見殺しにした」と
訴えられたとして、果たして勝てるだろうか?
などなど考え、結局胃ろうを作ることになります。
口から食べられなくなったら寿命、そうお考えの方は、意思を家族に話すだけでなく
書面を残しておいてください。どうかよろしくお願いいたします。
>【骨折】の件ですが、デンマークでは3〜4週間の間にリハビリを施し、ちゃんとそれなりに歩けるようにして退院させるようです。
>つまり、骨折からの寝たきりは絶対に作らないですし、おそらくそれが常識になっているのだと思います。
>日本では逆ですね。
>わたしの祖父は、転倒骨折で寝たきりになり、そのままベッドで亡くなりました。
>最初にリハビリをうまくやれば、余生8年くらい、あるいは10年あったでしょうか全然別の人生を満喫できたんだと思います。
療養型の病院で内科医やっております。
どうも非医療関係者の方にはリハビリに対する幻想があるように感じます。上記の書き込みにも
それが見てとれます。骨折で入院しリハビリしない病院なんて、まずありません。病院は
早く退院してもらってベッドを空けて新患さんを受けたいのでリハが可能な時期がきたら
すぐリハを開始します。
転倒・骨折で寝たきりになるのは、率直に言って寿命です。
日常的にあなたは転倒しますか?
転倒したとしても、骨折しますか?
リハをうまくやれば、10年は生きただろう、なんて予測は不可能だしあまりに楽観的な
観測だと思います。まあお祖父さんのお話ということですが、ご自身のご両親がその時に
なるともう少し見えてくるものもあるのではないかと思います。
私は10年以上神経内科医をしております。私は家族や主治医の判断は信用できませんので自分には“延命治療”を含めたすべてのきちんとした管理を望みます。
一部のドクターやご家族は高齢を言い訳にしてきちんとした診断や治療を行わず、ろくに全身管理もしないで胃ろう=延命と決めつけ、リハビリもせずに末梢点滴を何か月もつなぎ栄養失調や褥瘡を引き起こし結果として寝たきり老人を作り出しています。
もちろん、末期がん患者や進行性難病など明らかに予後が推定できる場合もあり、延命治療にあたる場合もあるでしょう。しかしながら、胃ろうは単なる手段なので延命治療とは関係ありません。また、末期がんや進行性難病の方にたとえ胃ろうや中心静脈栄養を行ったとしても延命効果はたかが知れているでしょう。
私の患者様で胃ろう増設後リハビリをして経口摂取可能に回復した患者様もおりますし、パーキンソン病で内服を勝手に中断されて寝たきりにされる患者様は少なからずおられます。また、脳梗塞による嚥下障害の場合半年程度で嚥下機能が回復する場合もあり、また嚥下リハビリの効果もあります。除脳硬直という重い意識障害で来られた蘇生後脳症の患者様も回復されました。ウェルニケ脳症を認知症と誤診され歩けなくなって入院された患者様もいます。胃ろうが内服薬や適切な栄養・水分投与にきわめて有効な場合もあるのです。
延命治療と胃ろう造設の是非が混同された議論には賛成しかねます。また延命治療をしないとすれば、点滴や抗生剤投与もしないということです。つまり、病院ではなくご自宅で過ごされるべきです。そうすれば一部の方がご心配なさっている医療費は全くかかりません。
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「認知症専門医のアニカ・タクマン先生にストックホルム近郊の病院や老人介護施設を見学させていただきました。予想通り、寝たきり老人は1人もいませんでした。胃ろうの患者もいませんでした。」
たまたま訪問したところに、寝たきり老人がいないとしても、これだけでスウェーデンにはいないと言うことはできません。文献調査はされたのでしょうか。
病院は短期医療のみなので、多分いない。
介護施設 ケースバイケースであるが、寝たきり老人は多分いる。胃ろうの患者はケースバイケース(個人的な経験から)。
スウェーデンの研究者としていくつかのコメントを。
スウェーデンにおける終末期ケアに関しては、厚生労働省のかなり詳細な報告書があります。
「高福祉国は逆に一部を切り捨てるからあれだけの福祉が実現できている」というのは、誰がどの様な資料をもとにして言っていることなのでしょうか。
日本人の死生観、宗教観といったものが根本的に欧米とは違っていると思います。
医師として数えきれない臨終の場に立ち会いましたが、アメリカの様に杓子定規的に30分以上は心肺蘇生は行わないと言って納得してもらえる家族なら我々も楽なんです。
誤解されている方も多いようですが、日本の医師が胃ろうを勧める理由の多くはエゴでもなければ金銭目的でもありません。肺炎を繰り返す老人を家族が介護できないし、入院しても結局高カロリー点滴で生かせることを望まれるケースが多いのです。高カロリー点滴(中心静脈栄養)を長期間続けることは新たなリスクを生み、高額医療となります。そこでやむを得ず誤嚥性肺炎を起こしにくい胃ろうを提案する事になります。「胃に穴をあけるなんてとんでもない」と思われる家族も多いですが、実際には安全で非常に管理しやすいし合併症が少ない。そして不要になれば簡単に閉鎖できる。そういうわけで長期高カロリー点滴を中止する目的で胃ろうを進めるケースがほとんどです。今の日本で”たかが肺炎”で死なせたら家族から訴えられる可能性もあるし、実際に肺炎が治って帰宅できる可能性もあります。しかし癌の末期の方に胃ろうや呼吸器を装着する事を勧める医者はほとんどいないと思います。
何処までが治療で何処からが延命なのかは判断が難しい事もあります。
患者さんを看取る事は感謝されても、見殺す事は犯罪になってしまう可能性が高いのです。
ある命に助かる可能性があるのか無いのかを見極めるのは困難な場合も多いのです。医学的に正しい事も心情的に受け入れられない事もあり、逆に家族の意向があっても安楽死を認めていない日本では殺人になってしまう事があるのです。
最後に事実として知っておいてほしいのは、胃ろうを発案し器具を開発したのも欧米人です。しかし、実際には保険制度の関係で欧米では胃ろうを選択出来ないという現状もあると思います。
老化で嚥下できなくなったなど自分で食事ができない場合に食事を出さない事は罪に問われますか?
流動食や点滴も止めても問題無いですか?
本人は苦痛でないですか?
3年前に亡くなった父を思い出しました。
長年COPDを患い、心不全をきっかけに在宅酸素療法になってからは入退院を繰り返していました。
亡くなる三ヵ月前に肺炎で倒れ、救急搬送。
素早い処置のお陰で回復するもその後は病院での生活でした。
家に帰りたい一心で美味しくない食事も無理して食べていました。
私達家族も大好物の佃煮やふりかけをこっそり持参、看護師さんも見て見ぬふりをして許して下さいました。
亡くなる半月前に、部分入れ歯を飲み込んでしまいました。
消化器内科の先生が内視鏡で取りだして下さり事なきを得ましたが、この後は入れ歯は禁止、そしてミキサー食になりました。
せめて材料がわかる刻み食をお願いするも誤嚥の危険があり受け入れられませんでした。
これを機にお喋り好きの父が話をしなくなりました。
食事もほとんど口をつけなくなり、噛まなくてもすむアイスクリームやプリンを少しだけ口にする程度でした。
一週間後、吸引した痰に食べ物が含まれており誤嚥お判断され、点滴栄養に変えられ、口に食べ物を運ぶ事はなくなりました。
そして徐々に意識レベルが下がり、ほとんど眠っている状態、十日後に息を引き取りました。
本人も家族も延命治療は拒否していたためこれ以上の治療はなかったと思います。
言葉を発しなくなった父は覚悟をしたのか、恐らく頑張る気力を無くしてしまったのでしょう。
食べられる事がどんなに大事か、生きる力になるのだと実感しました。
「生きる事」と「生かされる事」、最期をどう迎えるか、他人事ではなく、誰もがいつでも、どこでも直面しうる事、だからこそ医師任せ、家族任せにせず、自分自身で考え、決定しなければいけないと実感しました。
日本の医療、欧米の医療、その善し悪しを比べる事は制度上意味がないかと思われますが、他の国の老人の心の持ちようを知る事には意味があると思います。
長らくイギリスで暮らし、2人の義祖父の逝きかたを真近で見た経験をお伝えしたいと思います。
1人目の義祖父は94歳で亡くなるまで、1人暮らしでした。これは何も特別な事ではなく、ほとんどの老人は自立しています。
歩けなくても、心が子供や病院に頼ることが無いという意味での自立です。「老いた」という理由だけで子に従い世話になる、という思想自体だれからも聞いた事がありませんでした。もちろん病気があれば、病院にお世話になりますが、親が子供に介護する事はまず無ありません。
ヘルパーやドクターの訪問が充実しており、大きな問題が無い限りは自宅でテレビを見てまたは外の風景を見て過ごします。家族は土曜日のサンデーランチに兄弟代わり合って、親をパブへ連れ出します。これが唯一の外出です。日本人的観点からすると、さぞ寂しかろうと思ってしまうのですが、老いても1人で居られる、というのが彼らの誇りなのです。
風邪をこじらせ肺炎で入院してからは、「私はもう十分に生きたから、食事は必要ありません」と食物の摂取をやめ、約10日ほどで静かに亡くなりました。最後まで意識はありましたが、娘達以外の面会も全て断り、昔話をして過ごしました。孫やひ孫達は、病院での姿を見ていません。
二人目の義祖父も一人暮らしでした。夜中にベッドから落ちて腰を痛め、救急で運ばれました。私達がお見舞いに行くと存外に元気で、ナースを呼び止めてはストッキングの色を褒めたり・・。でも肺炎を発症してからはホスピスで過ごす事を望み、ひと月ほどで亡くなりました。
「子に頼らない老後の覚悟を持てる社会作り」という選択肢もあればと心から思います。
私は高齢者医療に長年携わり、今は障害者医療の現場にいる医師です。筆者の論旨は現在、私を含めた医師の間ではほぼ「共通認識」です。しかし寄せられた多数の意見は大変参考になります。「欧米とひとくくりにするな」、「高福祉国は逆に一部を切り捨てるからあれだけの福祉が実現できている」というのは、これまでに無い鋭い指摘です。
また日本ではすぐ欧米と比較したがりますが、より近い文化的価値観を持つアジア諸国の現状と比較しても、日本の終末期医療はかなり突出して異様です。
高齢者人口十万人当たりの胃ろう造設率などと言うデータは覧たことがありませんが、もし調べたなら世界中で日本だけ突出して多いと言うことになるでしょう。
現場から申し上げますと、胃ろうを作りたくて作っている医師はほとんどいません。これで良いかと問われて「良い」とためらわず答える医師は皆無でしょう。
胃ろうは、急性期病院から退院させるために、施設で引き取って貰うために作られます。これは個々の医師の価値観では無く、現在の医療制度から来る問題です。施設で胃ろうが必要な理由は二つあります。一つは手間の掛かる食事介助に充分な人手が不足していること、もう一つは経口摂取が出来ない方を施設で看取ることについての社会的合意がなされていないことです。
しかし社会的合意に関しては最近急速に変わりつつあるようです。日本老年医学会が胃ろうの是非について提言を発表したことなどもその一つです。なお一部のご意見に「Living willが現場では通用しない」というものがありましたが、これはゆゆしきことです。
ここで論じられるのは、あくまで治療の是非について本人の意思が確認できない場合であって、living willなどで本人が明確に意思表示しているのにその意に反した治療が強行されるのであれば、これは全く次元の異なる問題です。
数年前に、病院の待合室で聞こえてきた年配者の会話。
「この年になったら死ぬことは怖くない。ただ、どんな風に死ぬのか、それを考えると怖くなる。」
「あんな管だらけにされて家族に迷惑かけて死んでいくのはいやだね。人間の姿で死にたいよ。」そのような内容でした。
あれから年月が過ぎ、私も年齢を重ねて分りました。”人間の姿で死ぬ”の意味が。
医療従事者や医療機器開発会社または薬剤開発者の”お試し用”としては死にたくない。
コメントを読んでいると、誰しもある問題に対して、誰か(この話の場合は医師、政府、日本の社会、もしくは日本そのもの)を悪者にしたいのだろうなぁ、という暗澹たる気持ちになりました。
過去、農村地帯では「医者にかかることは恥。医者は死亡診断書を書いてもらうために行く場所」という常識がまかり通っていました。
終末期の医療や自己決定権についてはいろいろ難しい面も多いのは認識していますが、延命治療の否定が先鋭化して、デンデラ野や姥捨山のようなものが見直されるべきとして言われているのを見ると、再びそのような(病院にかかることは恥。病気にかかったらそのまま死ぬべきという)価値観に立ち戻ってしまうのだろうかという恐怖を感じます。
生き物は自分で栄養を取れなくなったら死んでしまいます。
それが至極当然の事だと思います。
それに抗うかのような延命治療には、やはり賛成出来ないです。
私は母を末期ガンでなくしました。
3ヶ月は延命治療だけで生かされていたと思います。
チューブで栄養を採りチューブで排泄する意思疎通も出来ない母の姿を見る度に、いつもスマナイ気持ちでいっぱいでした。
おそらく、本人も望んでいなかったと思います。
母の尊厳を無視している、その罪悪感で常にいっぱいでした。
誰もが自ら望まない延命治療。
それをしてしまうのは生きている側のエゴだとしか思えないのです。
なんて残酷なんだ、命あるのに見捨てるのか、って思う人もいるかもしれません。
しかし、それはただ自分の欲求を満たしているだけではないのでしょうか?
私には、それは人間の尊厳を無視している行為だとしか思えないのです。
せめて、患者でありたいです。
被験者にはなりたくない。
そして、僕はあんな風に死にたくない。
このエントリは皆で考えていく問題だと思います。コメント欄には医療の現場からの声も多く、記事では不足だったところにも踏み込んでいます。
なので、ぜひ再度それらを踏まえた上で、もう一度新たな記事を書いてください。
医療現場側の実態がわからないままでは、ただの現場避難にしかなりません。
皆がどうしていくべきなのか、再度整理した上で問題提起をしてほしいです。
全く同意。
尊厳と自由意思、つまりは自己決定の問題じゃないでしょうか?
寝たきり老人のケースで、例えば年金目当て、親族が胃ろうしてでも延命させる・・・など、尊厳が守られないケースを考えると、第三者が介入する必要があるので、法の整備は必須ではないでしょうか。
また、食物の摂取が生死のラインというのは、いささか簡単すぎる気がします。
老人のケースですが、回復が見込まれなく、認知症がひどくなって自力で食事ができない状態で胃ろうにしても、その後に体力が戻り、次第に認知機能がかなり回復して、普通に生活を送る。
こんな超絶回復するミラクル老人もいます。
とりあえず、この問題は広く一般の人にひろまってほしいですね。
植物みたいに何もしゃべらず・感じづ、枯れていくだけの老人を生かす為に、介護保険や医療保険がサラリーマン平均年収ぐらいかかる事をしってほしいですね。
ドイツやイタリアには寝たきりの人が日本より多いように見えます。
確かにスウェーデンでは寝たきりは少ないみたいです。
日本人の寝たきり年数をどのくらいで算出しているのですか?
「欧米には寝たきりがいない」という根拠になったソースを示してください。
私も今の日本の延命治療もやりすぎだと感じているので
スウェーデンの考え方を知ったのはとても感銘を受けました。
けれど「欧米には寝たきりがいない」というのは違うと思います。
家族の死に際まで人任せ?せめてそれぐらいは、決めようよ!
一方的な価値の押し付けではなく、選択できる世の中があるべきと思います。
お金があるなら、延命も選択肢ですが、この国の仕組みとして、特にこうした福祉は極端な例を出して、かわいそうだという反論が出ます。
身近な例では、ゆとり教育です。
詰め込み教育は、落ちこぼれた子供たちがかわいそうだ。
いやいや、落ちこぼれた子に補習をすればいい話で、全員のレベルを下げるのは違うだろう。
今回の問題は膨らむ医療費の抑制です。
400万円の治療費が数万円ですんだ。
それで本人は幸せだったのか?
年金も、概算40兆円必要と聞きます。
2012年度の税収が42兆円。
だから国債を発行しているわけですが、これが毎年続くわけです。
そのため高齢者医療を官僚は無駄遣いと判断しているのだと思います。
上記の議論でも医者の丸儲けのように、本当に役に立っているとは思えない状況です。
いかがでしょうか?
88歳で父が亡くなりました。おそらく10年も前から「宣誓書」なるものを自分で作成して、そこに「もし自分がボケたりしていても延命処置などは一切お断りする」と書かれており、特に疾患もなかったのですがだんだんと体の限界が来ている事象は生じていましたが、とうとうモノが食べられなくなり床に着き、水も飲めないのでさすがに最初は点滴をしていましたが、それももう限界になってきて、父に「どうする?入院するか?管を通すか?」と聞いたところ「いらん」と言うので点滴もはずし、その後1ヶ月で自宅で亡くなりました。潔いと思いました。往診主治医も私達のことを理解していただいて、ありがたかったと思います。
54歳の主人を94歳で母を64歳で弟を皆病院で亡くなりました。
年に関係なく人は必ず死を迎えます。
病院でのさまざまな体験、患者の家族にとっては幸せな時はありませんでした。
患者にとってはなおさらいろいろな思いがあったでしょう。
母は94歳でも頭も言葉もしっかりして食事も自分で結構大食な人でした。
微熱が出て心配で病院に行きそのまま寝たきり数か月後に亡くなりましたが、
病院のことはさておき、数年前に書いたと思われる遺書には「幸せな人生でした」
とありました。最後病院でベッドに縛られ苦痛に耐えるまでは・・・
病院では延命治療をしますか?と聞かれました。
「延命治療をして何が変わりますか?」との問いに医者は「肋骨が折れます」
「延命治療はしないでください」そして永眠。悲しみより穏やかに逝った母の顔に安堵しました。
その日は、いい香りのクリームを顔につけ、お母さん大好き、いつも感謝してるわ。
そんな会話をして母は香りを楽しんで鼻を動かしていました。
長く生きる事より、いかに家族友人から愛情を感じられるか、そのほうが人間にとっては幸せではないでしょうか?周囲に迷惑をかけていると感じるのは苦痛ではないだろうか?
生と死を理性で考える教育をしなければいけないのでは。
難しいですね。コメント書かれてる方もそうですが、自分の意志なのか他者の意向なのかごっちゃになってます。
延命でも尊厳死でも自分の問題ですから他者がどうこう言っては本当はいけないんです。たとえ家族であろうと。逆に自分が延命されたくないのなら、家族がそれを望んでも嫌だと伝えないといけないんです。自分で覚悟して決めないといけない。どこかで変えてもいいから一度決める必要はあるでしょう。
むしろ家族には本人の決定がどうであれ、それを受け入れる覚悟はいるんだろうなと思います。本人はそれをわかってもらう努力でしょうか。
迷惑をかけたくない気持ちもあるでしょうが、生きたいと言うのは恥ずかしい事じゃない。
となると制度的な話は専門家に任せるとして、死というタブーをなくすことと、もう一つ、自分が生きる意味をもっと考えてもいいんだろうなと思うんです。生きるために生きるんじゃないからです。
自分が何かをしたいのであれば寝たきりではできません。が、子供や孫の成長を少しでも見ていたいなら、延命する意味はあると思います。
全く同意します。
日本は仏教徒も多いと思うのですが、「魂は永遠だ」という認識はないのでしょうか。
私は仏教徒ではないですが、それでも、死んだらそこで終わりではないと確信しています。
そもそも「死=辛い事、悲しい事、死んだらそれで終わり」との感覚があるから、
本人が逆に辛いであろう延命処置などを施してまでも、
ただ「何としてでも『形として』存在している」事にこだわってる気がします。
いわゆる「死」、確かに肉体は消滅します。
ですがその魂は永遠になくなる事はなく、
ただ肉体を脱いで今いるのとは別の場所に行くだけの事です。
なので、肉体の死は悲しい事でも辛い事でもないです。
ただ周りの人間が「形として」存在して欲しいからというだけの為に
胃ろうをつくったり手足を拘束されているような状態でいることのほうがむしろ
とても辛く苦しく悲しい事だと感じます。
そういった「なにがなんでも形として存在している」という事にこだわる国民性というか、
そこに固執することこそが末期患者を苦しめる原因だと思っています。
「もういいかげんに解放して幸せにしてあげて欲しい」心からそう感じます。
日本の医療のあり方ももちろんですが、それだけではなく
日本人の「死」に対する考え方自体を改めて行かなければ
この問題はなくならないのでしょうね...
心内膜症による脳塞栓と僧帽弁置換術を受けて左半身麻痺で在宅介護9年の末に逝った父との戦いを省みると、その人の外部に機械を置き延命を図るのは、費用だけでなく、医療従事者の人的資源の無駄使いであると思う。80歳を超えてなお、病院のベッドを占有し、医師と看護師などの時間を奪うのは、救わなければならない人々への医療への妨げにすらなっている気がする。
また、父の介護による経験で言うと、腎機能の低下など、生命活動による排泄機能が落ちるとあっという間に死ぬようだ。
でも、人は必ず死ぬ。それも、産まれてすぐに命を落とす場合もあるし、不慮の事故で命を落とすこともある。看取る方の「死なせてはいけない」という正義感あるいは道徳、倫理観をベッドの上に横たわる人に強く投影しすぎるのは、周りの人間のエゴのような気がする。
簡単に言うと、猫舌の人に「熱いうちに食べて」と無理矢理口に煮え立ったスープを放り込むような医療はやめた方が良い。
これは、そういう自然な死を迎える「場」が整備されていないことが問題なのですよね。
老人が「調子が悪い」として救急車で運ばれるのは、ほとんどが救急医療体制を備えた急性期病院です。そこで残念ながら回復の見込みがないと判明した場合、担当の医療従事者も病院も、胃瘻の選択については実はどちらでもいい問題です。むしろ、そこから自然な死を迎える場があるかどうかの問題です。
現在の医療行政では、自然死を迎えるまで、最長数ヶ月間でしょうか、急性期病院で患者さんを入院保護できる余裕はベッド数および医療報酬制度の問題からありません。新規の救急患者の受け入れや、必要な手術や医療設備の維持が難しくなるといってもいいかもしれませんが、これは長期入院の抑制による医療費抑制政策そのものです。すると長期療養のための施設に転院ということになるのですが、そのような施設では、転院の条件として病状とケアが安定していることを求められ、そこで胃瘻を作るよう要求されることがほとんどです。そして、多くの場合順番待ちとなりますが、ベッドが空いた場合には「安定した」患者さんから優先されます。
それでは、御自宅に戻って介護をしていただけるか、それについてはいかがですか?もしくは医療費以外のサービス料を負担する施設に行くことはどうでしょう。
それも無理というならば、具体的にどこに自然な死を迎える施設が整備されているのか、そこの問題なのだと思います。
100人定員(+ショートステイ)の特別養護老人ホームです。
現在胃ろうの方が7人おられます。
(1)入所時にすでに胃ろうをされていた方、
(2)所時に胃ろう手術が条件となった方、
(3)入所後誤嚥性肺炎を頻発し、手術をされた方
……それぞれです。
①はともかく、(2)(3)はひどい話だと思われるかもしれません。
私から言えることは、
日中4人(朝夕は3人)の職員体制で
食事が全介助の方が10人以上、
一部介助の方が5人前後、
自立の方は2~3人、
食事時間は一時間が目安
(それ以上起きているのは体力的に厳しい方が多い)
設立から20年経ったうちの特養は
こんな状態のユニットばかりなのです。
(退職が多い時期はもっとひどいです…)
高齢で食事に時間がかかる、
またはむせが多い方と分かっていても
一対一のきめ細かな食事介助がたいへん難しいのです。
食べられなくなれば、衰弱しやがて亡くなる。
生き物として当たり前の姿かもしれません。
「自分が(親が)
ミキサー食でも食べられなくなってきたら?」「何度もむせて肺炎を起こし、
入退院を繰り返すようになったら?」
皆様、是非一度お考えください。
少し前に読んだ「医師らはどのように死んでいくのか - How Doctors Die -」を読み直した。
一人の医師が病に冒された時に取った行動を知人が記事にしたものだが、多くの共感を集めているようです。残された時間をチューブに繋がれ苦しむのか、それとも痛みを最小限に抑え家族との思いでを作るのか、高齢化社会の日本でも真剣に向き合わなければならない問題ですね。
興味のある方は読んでみて下さい。
改めて投稿を読み直していて気が付いた事があります。
多くの人が、『寝たきり』を文字通り『寝たきり起きられない』と取ってらっしゃるんじゃないか?
あるいは、『自力だけではで生きられなくなった人』、という表現で言えばより近いでしょうか?
私は、あくまで寝たきり、かつ『意識がない』場合で考えていました。いわゆる『植物人間』状態の方の場合です。
このブログの投稿にあった方のように、「まぶたの動きで意思を表現できる」人は明らかに『生きて』らっしゃるのだから、このブログでの考察とは無縁と思ってました。
ご本人が「さあ、そろそろ、もういいよ」という意思を表現されたら、さあ、そこからの問題でしょうけど…
寝たきりで、声が出せない(その事自体は大した事じゃない…)で、胃ろうされてるとしても、明らかに『生きて』らして、喜んだり悲しんだりされてる方をを死に追いやる事は、私にはできない。
私の父親は、語ることはないけど戦争に行ってます。いろんな苦労をしてる。終戦直後の混乱や社会制度の変革。高度成長期の働き。
その結果として(いいか悪いかは別として)現在の社会に今我々は生きていけている。今まで高齢者世代が払った年金保険や健康保険の金額からいったら(収支、正直言ってわかりませんけど)、現在の高齢者の方はもっとわがまま言っていいのでは? 言ってほしい。「生きたい」なら生きたいと。「早く楽になりたい」ならそのように。
残される側からの議論は、むしろ不毛なのかな…とも感じました。
当人たちの本音を聞く事は大変難しい。「寝たきり」になってからはもちろん、生前に「終末医療はしないでくれ」と言う時、どこまで考えているのか。本音なのか、気を使っているのか… どんな医療方法があるのかなんて(私もですが)わかってはいないだろうに…
うちの親は常々自分の意志で何もできないような状態ならそのまま放置でいいといっている。
自分自身もそんなのなら殺してくれて結構といっている。
そもそも法律で縛ること自体が論外。
第一法律で人間の尊厳や自由を守るだとか書いてるのだから
死にたい奴は死なせればいい。
安楽死をさせるのが殺人だとかいうのが間違っている。
勝手にするのなら問題だが、本人が望んでいるなら止める権利など誰にもない。
嚥下できなくなったら胃ろうか中心静脈栄養が最近の病院の傾向ですね。心機能が悪くなってもペースメーカー入れたり新薬使ったり。それでも身障者認定受けて信じられないくらい安い医療費ですよ高齢者は。月1万円以下の人沢山います。たくさん年金もらってるんですから、それなりに払ってもらえばいいのに家族は施設にいれっぱなしで年金使い放題してますね。お金欲しさに全ての処置望む、そんな家族たくさんいます。そのためにしてるんじゃないですか?儲かるのは病院・薬屋だけです。
癌患者がどれだけ高額医療に苦しんでるか、その人たちの医療費へまわすのがあたりまえじゃないですか。
機械も動物も老衰、劣化があります。人間だけおかしいんじゃないですか?老衰を認められないなんて。
率直な話、この問題を医師、政治、時代が悪いから……と主張されている方が結構おられて、これじゃあ医者も大変だなと思ったのが正直なところです。
自分の行き方、そして死に方は自分で考えるしかありません。そしてその意思を家族や社会との会話の中で可能な限り、残しておく必要があるでしょう。また、自分の親が明白な意思を残さずに終末期に入った場合は、どんなに辛くとも家族が判断して、何らかの結論を出さねばなりません。医者任せにしたら……特に意味が無くても、医者は当然延命処置を施すことにするでしょう。その判断を責めるのはまったくの筋違いです。
一方で、個人や家族の明白な意思がありながら、それが通らない世の中なのであれば、それは政治を通じて社会を変えるしかありません。理想論かもしれませんが。
>はっきりと医者が「意味がありません。しません。」と言えばいいのよね。
いくらなんでも無責任がすぎるのではないでしょうか。医者は神でもなんでもないでしょうに(ちなみに私は医師でも医療関係者でもありません)。
何人かの方が書かれていましたが、人がどのように死を迎えるかは死生観によるものだと考えます。それはその国の民族性にも表れると思います。
現在の医療での何が何でも延命させなければいけないという考え方は、昔からの日本人の考え方でしょうか?
私は今看護師として急性期の病院で勤務しています。そして、歴史に興味があり、近代の日本の歴史に触れる機会を多くもちました。
私の読んだ本で「逝きし世の面影」というのがありますが、幕末から明治維新にかけての日本を訪れた外国人が日本に対する記述を分析した本です。
当時の外国人が日本人の死生観について記述したと思われる部分がありました。
それには日本人は死を恐れないと書かれてあります。命を粗末にするというのではなく、そこには武士道という日本精神を表した日本人独特の死生観というか生き方を外国人がそのように表現したのだと思います。
戦後、アメリカからGHQが来て、戦前の日本人の生き方を否定するような教育をなされたために、日本人の死生観まで変化してしまい、現在に至っているように思います。
この問題はもう一度、日本人の原点にもどらなければ答えが見つけられない気がします。
私の勤務する病院でも胃ろう造設の患者は多いです。それよりも以前老健施設で、ただ毎日だまって椅子にずっと座っているだけという利用者を見ていてこれが人間の生き方なのかと考えたことがあります。
命を【不必要に(無駄に)重要視しすぎてる】と思う。
正確には命というより「人生」と言うべきか。
どんな状態・状況であっても1秒でも長く生きる事が、誰にとっても、本当に間違いなく絶対に良い事なのか・・・と。
延命処置によって【強制的に生かされる】のは、子や孫から「長生きしてね」と祝福されるのとは違う。
すべての人間が「長生きを目標に生きてる」わけではないと思う。
もちろん無駄に早死にする必要もないが。
ただただ長生きしようなんてのは「目的と手段を履き違えてる」んじゃないだろうか・・・?
このような記事が出てきたことを歓迎します。
私にとって社会一般が行う延命処置とは「元気な時にもっと何々をしてあげればよかった」という周囲の“罪悪感”を紛れさせるための行為に過ぎません。
未だまともな公的支援が存在しない難病・障害で溢れる現代において、そのような「自己満足」のために社会のリソースを無駄にすることを肯定するなどとうてい不可能なことです。
もっとも、“延命を望む者は10割負担”であるならば、どのように生きるかは個人の自由であるため、選択肢の一つとして存在することは妥当でしょう。
私が当事者ならば延命に関わる一切の金を盲導犬育成や難民支援などに全額寄付してもらった方が嬉しいですね。
延命処置の問題は
・自分にはしてほしくない
・けど親にはしてほしい
という人が大半だと思う。
(探せばそういう調査結果も多分あると思う。)
こういう思いを抱いてしまう理由としては、
「自分は犠牲になっても他人を犠牲にしたくない」
といった「優しさ」という考えもあると思うが、
自分はそうは思わない。
単に自分が傷つきたくないからなんじゃないか、と思う。
親に延命処置をしないことによる罪悪感や
親を失う喪失感に耐えられないから、
だらだらと延命処置をしてしまうのではないか。
自分には延命処置なんて絶対にしてほしくない。
親も妻もそう思っていると確信している。
だから自分は、家族にそのときが来たら、
延命処置は断固拒否するつもりだ。
たとえどんなに周りや医者から責められようとも。
欧米の医療は人間の尊厳が尊重され、、、
って意見が多いけど、
欧米の医療の実態を見た上で言ってるの?
欧米の医療の悪いところも含めて言ってるの?
「欧米の医療」ってのは実際に見たり体験したりしたの?
「欧米の医療」の良い面ばかりを見るのは如何なものか。
いろいろな意見があって難しい問題なのだな、と感じました。
幸い、私の両親は80代でまだ健在です。お互いに相手を「そろそろボケてきてるみたいだゾ」と言い合って、喧嘩も増えているようですが、まあ、年の割には元気な証拠です。
私個人的には両親にはできるだけ長生きしてほしいし、私自身も長生きしたい。その際に終末医療がどうかかわってくるのか、正直言ってまだ実感できていません。まもなく、いやでも体験する事になるのでしょう。
寝たきりの医療を行う時、「治る見込みのない患者に治療を行うのは無意味」という考え方があるように書かれている方がありました。
両親が寝たきりになったら… 私だったら出来るだけ延命したいと思うだろうな。
「寝たきり」「植物状態」の方を「延命治療」してる人(家族)はその状態が続くことを望んでそうしているわけではなく、「いつか(奇跡的にでも)回復してくれるのではないか」「画期的な治療法ができるのではないか」と期待してそうされているかたも多いのではないでしょうか?
高齢の方の場合と、若い方で事故や病気で寝たきりになった方と、考え方は違うのかもしれませんね。
宮本医師のご意見に大賛成です。私はこの記事をプリントアウトし、余白に以下、記入しました。
「私は宮本医師に賛同し、すべての延命治療を拒否します」
そして、名前を書き、日付を入れ、実印をおして妻に渡しました。娘にも、姉にも渡す予定です。
私たちは「その時(死ぬ時)」を知りません。しかし、イザという時のために準備しておけば、毎日を「生きていることに感謝して」過ごせるのではないかと思います。
昔の人たちは、自宅で、ものが食べられなくなり、痩せて亡くなりましたが、苦痛ではなく、楽だったと思います。「大往生したければ医療にかかわるな」の中村仁一先生が看取られた多くの人もそうでした。私もそういう大往生を目指します。(60歳)
寝たきりで苦しいだろうから、人道的ではないとか
今まで頑張ってきた老人を殺すのはどうかしてるとか
そんなことは自分じゃないからわからないでしょう?
人のため人のためと自己満足じゃないんですから、自分がそうなったらどうして欲しいのかよく考えてから答えるべきです。
少なくとも私は、狭い部屋に閉じ込められてずっと苦しんでまで行きたいとは思いません。
しかし、それでも生きたいという人も少なくはないでしょうから否定もしません。
日本人の感覚で自分だったらどうされたいのか、その割合がどの程度なのか話すべきではないのでしょうか。
何が何でも延命を望めばそうすればいい
本人 家族が決めればいい
ただし 健康保険は使わせない
ウチのおばあちゃんは82歳で心臓弁置換手術をした
元通り元気に暮らしている
400万円以上かかった
だけど 支払いは 数万円
これっておかしいでしょ
他人事なら自分で払えよと言いたくなる
元気になる見込みのない胃ろうなら なおさらだ
この記事に批判もあろうかとは思います。
ただただ生かされている状態でもいいではないかという日本の考えは改めるべきでしょう。
それを望むならそれでもよいです。考え方ですから。
しかしあるところから先の医療費はすべて自費でまかなうのなら文句は有りません。
このような世の中になり未来に生かす資金も重要です。
同じお金がもっと有益に社会に使えるようにするべきです。
終末期医療(治せ無いんだから医療というのもおかしいが)は、特権階級の肥やし。
日本の寝たきり老人は、医者の金蔓。
健康保険料は搾取。と言うことだ。
医者が言ってるんだから間違いないな。
人間の脳には死期の時にはこんなシステムが付いているんじゃないでしょうか。
霊とかあの世があるとかじゃなくて体が生をやめるとき脳はこんなプレゼントをしてくれるんじゃ無いかって・・・・・
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20120621-OYT1T00710.htm
誰でもそうだろうけど、結局「命の尊厳」を安価なパックで、購入しようとしてるだけでしょう。
「死に対する恐怖」を金銭で克服しようとしているだけでしょう。なんだかんだ言って、金が余っているんですよ。
医療も金を誘導するために、「尊厳死」なんて、言葉を作ったのでしょうよ。命に尊厳があるというなら、お前間違っているって、世界中から、押しかけてみたら、どうでしょう。
これが論理の飛躍、すり替えであり、「それは、あの国の、政治が、悪い」という、落としどころなら同様に「日本の政治が、延命治療を喰いもにした」という落としどころになるんじゃね???
夫婦で、胃瘻をした場合(+ペースメーカー)としない場合の2人の母たちを看取りました。しない方が本人の苦しみが少なく良かったと思っています。しかしほとんどの病院では、本人や家族の意向は無視されいやおうなしに胃瘻にされてしまいます。胃瘻をしないのは見殺しにするようなものだと言外に匂わせて。まるで踏み絵です。
多くの人が胃ろうを造ってまでは人生を生きたくはないと思う。
自分もそうだ。
愛する家族がそうなった時、その先に死が待っているなかで
「胃ろうは造らないでください。」
と、堂々とは言えない。
自分の一言で他界するわけだからね。
はっきりと医者が「意味がありません。しません。」と言えばいいのよね。
誰だって人の死の重みを自分の手の中には残したくないからね。
皆さんのコメントを読んで、もう答えは出ていると思いました。
日本の延命治療は規制が必要です。日本人は決まり事がないとダメなんです。
この記事を拝見をして、私は、欧州での、医療制度に賛成です。健康年齢まで活きていられれば、それが寿命として楽にしてください。それが、日本の社会保障費を削減をする決め手でもあると思います.62歳男性からのメッセージです。
本人が「死ぬのも嫌、でも苦しいのも嫌。どっちがいいか決められない」
という状態で、そうしたら家族が延命治療を選択する、ってケースも結構多いんじゃないかと思います。
でも胃ろう等で何も話せなくなった患者さんて、大多数が無表情になったり、早く死にたいって表情になりますね。
なので、家族はその選択が正解だったのか、と悩むことになる。
結局、今日本では、死ぬということがただ嫌なことであるだけで、「そういうときは死んでいい。延命治療はいや」なのか、「とことん延命治療をしてでも生きてやる」なのか、自分も家族もきちんと考えきれていない、話し合えていない人が多いんじゃないでしょうか。
死があまり身近でない、「不謹慎な」話題であるので、なかなか普段から話し合えない話題ってこともあるんでしょうけど。
欧米の考え方はips細胞を利用した技術の開発にブレーキをかけかねない考え方ですね。
延命を望まないというのは「死を選択する」意味しかなく。
その逆、最後まで死に対してあがなう権利を放棄していますね。
「死に対してあがなう」事を望む人も居るだろうに、口がきけなければそのことも伝えられないだろうに。
今後、ips細胞技術の発達が進めば「老化」自体にも踏み込む可能性も大いにあると思うのですが。
人間は自然のサイクルから大きく外れてこの地球に存在し続ける以上俗物である事を受け入れて生き続けるべきだと思います。
北米は寝たきり老人いますよ。
普通の施設ではなくて寝たきり老人やボケ老人専用の施設にいます。
日本みたいに自分で介護する人は皆無に近いと思いますが。
こんな問題を提起してくれるお医者さんがいるんですね。死生観等を横に置いて、老人の周辺を見渡すと、結局「儲けているのは、医者だけ」と思っていました。
だいぶ前のコメントにもあるように
リビングウィルが通用しないんです
おかしいですよね、、、、
人間の尊厳=自身の意志、意思、遺志?
と捉えると医療の世界は
いったいなんなんだろう、、、と
感じてしまいます
生命として存在させることが
医療の生きている?
自身の意思はどこにもなくとも
命があるのか?
よくわからないのですが、、、、
多くの胃ろうなどの終末期にあたる方を
看てきましたが
個人的には
いいことは無い と感じてしまいます
ご家族の思いはそれぞれですが
自己満足にしか見えない私は
いけない人なのかもしれません、、、、。
スウェーデン式を断然 支持します
どちらの方が良い、と決めるのは難しいですね。
10年前に亡くなった祖父が胃ろうで寝たきりでした。手術で声帯も失っていたので一言も話せない状態でした。
私が3歳の時に入院生活を始めて、亡くなるまでの10年間ずっと寝たきりだったので、私の中では「おじいちゃんは寝たきり、声も出ない」という記憶がほとんどで、一緒に遊んでもらったり、声を使ってお話したりという思い出も本当に少ししかありません。
でも、祖母が作った、あ行からわ行まで書いてあるひらがなボードを使って、祖父がウィンクした数でどの文字を指しているのかを数え、声はなくとも会話をしていました。寝たきりだったけど、一緒にどこへ出かけたわけでも、声すら知らない/覚えていないけど、毎週祖父に会いに行く度に心がほんわり温かくなったことを覚えています。
そして、昼夜を問わず、泊まり込みで年中祖父の側でお世話する祖母の姿を見て(とてもラブラブの2人でした)、「こんな夫婦になりたいな。」と幼いながらに思っていました。そんな祖母も実は末期のガンだったのに、「おじいちゃんの側を離れるくらいなら・・・」と言って、祖父が亡くなるまでずっと側に居て、本当にいつも仲の良い夫婦でした。
祖父がなくなった半年後に、胃ろうも、どんな延命治療も拒否した祖母は後を追うように亡くなりました。でも祖母は「早くおじいちゃんに会いたい。」と言い続けていたので、家族は治療を押し付けることもなかったし、それを後悔したこともありません。
個人的な意見になりますが、私は寝たきりでも、本人が生きたくて、周りも生きて欲しいと思うのであれば良いのでは?と思います。私は寝たきりの祖父と過ごした週末は今でも大切な思い出で、10年間見続けた祖父と祖母の愛は私の見本・憧れでもあります。
でも、本人の望んでない延命、というのは確かに考えてしまいますね。
様々な理由で治療や延命のチャンスすらなく命を失う方もおられる中、良いか悪いかはともかくとして『もう生きなくていい』なんて方向を選択肢に入れてしまえる時点で贅沢すぎる気もしますけどね。
「誰でもいつかは死ぬのだから死は受け入れなければならない」
「自分もそんな思いをしたりさせたりするよりは延命無しで自然死を選ぶ」
実際にその場その身になってみないことには自分も解りかねますが、この様なご意見を目にするたびにいつも思う事があります。
『生きている者』としては『死』は何があっても抗うべきもの。そうでなければそもそも生まれることすらかなわない。
死を『受け入れる』『選ぶ』なんて行為は本来、生物としてはタブーを通り越してパラドクスでさえある筈。
様々な面で今まで『生きよう』としてきてここまでになった人類。
今更『死から逃れる』のではなく『生から逃げる』ことを選ぶ・・・
是非はどうあれ、やっぱり『贅沢』だという印象がどうしても捨て切れません。
可能性がどんなに低くても生きている者が自他に何かしら与えることは有り得ます。
生をゼロにしてしまえばそこになにをかけてもゼロです。
とはいえ、『現状の苦しみから解放してあげたい』と『どんな形でもいいから生きるチャンスがほしかった(あげたかった)』
この両極端の苦しみを比べてしまうこと自体がおこがましい気もするのですが。
記事本文とコメントを読んで、尊厳死肯定派の方がいたり
胃ろうがあることで助かったと思っている方、そのご家族がいたりで
本当にいろんな考え方があるんだと感じます。
欧米の考え方に近づこう、という方がいてもいいし
日本の宗教観みたいなものを大事にしていたり、
家族には少しでも長く生きていてほしいと思う方がいてもいいよね。
自分にもし胃ろうが必要になったら、どうしたいか自分で決められるといいな。
記事を書いていらっしゃる先生のご専門が機能回復学分野なのを見て
こういう、人間の自然な死を大事にしたいと思うに至ったのはどうしてか
知りたいなと思いました。
大学でがんの関連研究をしていたときに、もしがんが完全に治療できるようになったら
人は何で死ぬんだろうと、良く思ったのです。
大きく3つの立場があるようです。
・より多くの死に接している医療従事者は、胃ろう反対、その責任は、死のあり方を決定できない家族。
・胃ろうがあっても、尊厳ある生を終えられた(幸運な)家族を持つ人は胃ろうに賛成。
・家族や身近に大病を患ったりしに瀕した経験の少ない人は、経済的合理性から、胃ろうに反対、その責任は医療機関の金儲け主義。
どの立場でも、死について日常的に語ることを避けてきた結果、身近な人の死に接して迷ってしまう状況なのではないかと感じます。死を忌むべきものとして、病院に封印し続けてきた結果、どういう死が幸福か選べなくなっているのでしょうか。
たとえ身近な人であっても、誰かの死に対して責任を持つのは重いことです。できることなら自分の死に方をあらかじめ身近な人に話しておく必要があるでしょう。しかし、自分の死について語ることは自分にとっても相手にとっても、今の日本では、苦しいことかもしれません。この記事ような議論を積み重ねることで、死に対してみずから決定できるようになれば、胃ろうを作るかどうかの決断を迫られる家族の心労や、不必要と思いながらも訴訟を恐れて胃ろう造設せざるを得ない医療従事者の苦悩も減るはずです。
北欧の終末期医療の体制も当然昔からあったわけではありません。近代化による疾病構造の転換という観点からは、北欧は明らかに医療問題の先進国であり、おそらく10年から20年ほど前に、同じような議論が盛んに行われた結果、現在のように高齢者誰もが自分の死に対して意見をもつようになったのではないでしょうか。
実は、死は高齢者のためだけのものではありません。中年でも若者でも子供でも、誰でも、明日には死んでしまうという可能性は0ではないのです。今、自分が回復不能な死に瀕したとして、死に方を家族や医療者に話してある人がどれだけいるでしょうか。
急性期、回復期、療養期の病院では、それぞれ「延命治療」の定義が違うように思います。
同じ医療行為でも、それによって回復するなら治療。それによって生きやすいのなら単なる医療行為。やり続けないと死ぬのなら延命治療。
でも、具体的に何がそれに相当するのかは、患者さんの数だけパターンがあるのではないですか?
そして、それをどう判断するかは、家族の数だけ答えがあるのだと思います。
判断を他人に委ねてしまった、自分に判断の権限がない、そんな場合には違和感を覚えるのでしょうけれど。
様々なケース全てに対応する線引きはできるんでしょうか。仕事や家族の犠牲になってきた人を、こんな簡単に死なせていいのか。そんな考えが浮かぶのは日本くらいなのかもしれません。そこに正否はあるのでしょうか。
自由で気儘な父は73で癌で逝きました。医師と相談し自分で全部決め、ホスピスで望んだ通りに亡くなりました。
が、母は、60代である朝突然倒れました。何度か脳梗塞で倒れて復活、透析もしていましたが、今回は脳出血。体のほとんどが麻痺しました。
急性期の病院では、生きるための治療をしてくれます。回復期の病院ではリハビリを。しかし期間が決まっている。実家にいた末の弟は当時、そんな医療システムや高齢者医療の抱える問題を少しも知りませんでした。姉弟で話し合い、延命治療はしないという方針でしたが、急性期の病院で気道切開と胃瘻をしたほうがよさそうだったので頼んだ、と弟から電話で報告されました。毎日のように一人で病院に通い、物言わぬ母のことを彼なりに考えた結果だと思うと反対できませんでした。もし、転院できず自宅で介護や看取りとなったら、弟は一人で生活の全てを介護に費やすことになります。姉として弟も守らなければなりませんでした。
3年の間、数回咽び泣いただけで一言も話せないまま、母は70代になり、内臓全般が弱ってきました。主治医との連絡役だけ、家が遠い長女の私に代わりました。顔のパックをすれば自分から目を閉じ、幼い孫の声に微笑む母には、何度も、弟がもう少し成長するまで辛いだろうけど生きていてくれるよう話しました。
そろそろ、母の体が止まろうとしています。胃瘻による栄養も受け付けなくなりました。餓死か心臓の停止を待っている状態です。しかし透析は怖くてやめらません。弟も私たちも、やっと母の死を受け入れられるようになってきたようです。
ここを読んで簡単に「延命処置」がいらないという人が多くて驚きました。
私はその人に聞きたいものです。
今、この瞬間からあなたが何かしらの原因で口を経て食事がとれなくなったとしたら、別の方法で何とかして体内に栄養を入れて欲しい、と思いませんか。
思いますよねえ。
私は当然そう思います。
はたして、そう思わない人がいるのでしょうか。
「私はこのまま栄養をとらずに衰弱死するからいいよ」っていう人っているのかなあ。
自分の身になって考えてないから延命処置はいらないなんて言えるんですよ。
自分が、自分の親が、自分の妻が、自分の子が、重い病気になったときに治療しないでくれ、なんて言える人いるんですかね。
死の宣告をされて、死が当然になった時には、あきらめで言うかもしれませんが。
あと一つ言いたい。
「自分の意思を表現できない人は死にたいと思っている」は大間違いです。
とんでもない話だ。
そうそう、欧米でも寝たきりはたくさんいますよ!!
介護から関係のない職場から転職の40歳。
介護職2年目(1年半ぐらい)ですが、
介護の世界は一般常識の通用しない世界ですし、
ホントに日本の介護は世界的に見ても異常だと思いますよ。
寝たきりの本人の意志より、周りの押しつけで生かされているだけ。
ポイントはやはり、
日本の医療体系・利権が大きなウエートを占めている感が否めません。
また、
一般の人々の認識の低さもあり、死が生活から隔離され、引き離されていることが大きな問題です。
これは国民の生活をどこへ向かいたいのか政治の問題でもあると思います。
寝たきりでなくとも認知症で自ら食事摂取が不可能な人に
200ccの400カロリー程度の栄養剤をプリン状にしたり、
水分にトロミをつけて提供するわけですが、
毎日、誤嚥とのたたかいです。
いやいや、わめいている認知症の利用者の口に無理やり押し込め
喉に詰まら咳き込み、苦しむ…
誤嚥性肺炎で発熱し死ぬか生きるか生死の分かれ目
介護施設の大抵の死因はこれ。
必至に吸引したりして、懸命に命が繋がれるても、毎日これの繰り返し。
ちなみに食事が取れなくなくと機械的に
看護師さん食事形態として決められる。
生かしたいのか?死ぬ責任を押し付けられているのか?
市民の税金の医療利権で懐をあたためるやからを尻目に
異常な低賃金で、人権無視レベルの労働条件を突きつけられ
社会の大きな歪みのなかで介護?してますよ。
外国人なら逃げ出して当たり前ですよね。
昔は人は家で生まれ、家で死んでいきました。それが今はすべて病院です。
出産は病気ではありません。そして老齢で衰弱して死んでいくのも当たり前のことです。
人の死はもっと身近なことなのに、死と直面することがなくなってきました。
死は自分たちではなく、医者が考えるものになった。
この問題はこういう世の中になったことが原因だと思います。
また、終末期医療は国が決めたりするものではなく、ケースバイケースであるべきでしょう。
自分が延命したければすればいい、生かして貰いたいのなら事前に周りに宣言しておく。親がしたいかどうかは事前に聞いておけばいい。個人の勝手。
なにを皆さんごちゃごちゃ言ってるの。
パンダさん、丁度昨日、山井和則さんの「世界の高齢者福祉」を読み終えたところです。
まさにこのテーマが登場するのですが、、、
作者は20代でデンマークやスウェーデンを始めとして様々な国の介護を実習しながら2年くらい回った方で、最後には「日本の介護は政治でなんとか変えなければなければならない」と考え、今は国会議員となった方です。
【骨折】の件ですが、デンマークでは3〜4週間の間にリハビリを施し、ちゃんとそれなりに歩けるようにして退院させるようです。
つまり、骨折からの寝たきりは絶対に作らないですし、おそらくそれが常識になっているのだと思います。
日本では逆ですね。
わたしの祖父は、転倒骨折で寝たきりになり、そのままベッドで亡くなりました。
最初にリハビリをうまくやれば、余生8年くらい、あるいは10年あったでしょうか全然別の人生を満喫できたんだと思います。
本によると、寝させて一週間もすれば老人は歩けなくなるとのことでした。リハビリはキツイですが、転倒骨折した人のケースであれば誰しも「歩けなくていい」なんて思わないハズ。
そう考えると日本のシステムはよろしくないなぁと思っています。
不自然な延命治療に違和感を感じるのは、今現在元気な人には当然の感情です。ただ、「延命治療は希望しません」と言っていても、自分の死について本当に真剣に考えている人はどれくらいいるのだろう……と感じるのも確かです。
なにしろ2009年の臓器移植法の改正すら(死の定義がかなり変更されたと個人的には認識しています)、まともな国民的議論が行なわれなかったのが、日本の現実です。
20代の馬鹿な若者が「俺は40歳まで生きる気は無いぜ」などと言っているのと50歩100歩のレベルで(それは言い過ぎか。なら、5歩100歩?)、「延命治療は希望しません」と言っている人が実は多いのではないかという疑念を拭うことは正直できません。
また、欧米の例は、社会・個人の負担を減らすために、あえてそうしている部分を忘れてはいけないです。特にスウェーデンは、社会全体の利益のためには個人の自由や意思は一定範囲内で制約されることが受け入れられており、日本とは明らかに異なる部分がある国です。
最後にもう1つ感じた違和感を。元気なうちに決めた死との向き合い方を、死の直前にも貫けるかのように皆さん自信満々に語られますが、本当にそれは可能なのでしょうか? 少なくとも自分にはその自信は無いです。
母は元気な人で黄ダンが見つかり直ぐ入院させましたがその日のうち下血2日病院にいましたが
医師いわくここは治療するところで入院するところではないので自宅へひきとってくれということで3日めにたん院させて最後の親孝行と思っていたところ5日の昼ごろ私はもう死ぬのかしらと涙を流しいったので自分も涙がでてきました。自分が隣にいながら気が付かなかったことに悔いがのこります。後半少しはぼけてきて食べ物を買いすぎては腐らせ。夜ゆくえ不明
になったのを探したりいろいろでした。
週に一度は自宅でごちそうしたりしても食欲十分なのと買い物も平気で毎日の様に山ほど買い物をしていました。
毎週通っていた病院でなぜ母の病状を説明して
くれなかったのかがくやまれます。
末期肝臓ガンでした。94歳でした。
年齢には関係なく94歳までいきました。
薬を山のようにだしていた病院には2回いきましたが何の説明もなく薬ずけなので薬がゴミの
様になるので減らしてほしいと交渉にいったことがありました。5年以上前より便秘の薬を出しつずけていました。ので床に便がときどき落ちていたり下着がよごれてれていたり、ころんで骨を折ったりいろいろありましたが肝臓ガンがここまで進行していて普通ならかなり疲れしんどかったのだとおもいました。
家族に何も説明しなかった医師に腹をたてても
しょうがない。彼は商売のために薬をだしていただけの非力な医師でした。
この病院は歩いて3分の近さでした。自分の非力を誤りにこなかったです。
医師を頼りに自分の体調を相談にいっているのですから自分の判断できないことは他の設備の
あるところを紹介すべきだったのではないかと
思います。
寝たきりと申しましても、例えば足を骨折して療養している間に筋肉が萎えてそのまま歩けずに寝たきりになるケースは結構あるのですが
北欧ではそういうケースはどうなっているのでしょうか。
骨折した老人の介護と復帰についての取材をお願いします。
骨折しても寝たきりにならない方法があるのならば日本も学ぶべきですし。
人が生命ある有機体として生まれてくる。
また、死んでいく。自然の摂理です。
私も、家族のため、やら、国で認められていないから、という理由で、そんな最後を終えたくはないです。
可哀想、というならば、自分の意志で思うように動けない状態なのに関わらず、ただ、生を存続させている事こそが、哀れを感じます。
本人が、そうなっても、どうしても生きたい場合は別ですが。。。。
自分が老齢もしくは重大な病気でその立場に立たされた時に、あるいはその前に…
自分で決められる制度が欲しい。
意識があり、コミュニケーションをかわせるウチはまだ良い。
なにも出来なくなり、できるようになる希望が絶たれても、なお長々と強制的に生かされるのはあまりにみじめです。
現行制度では、本人の希望は尊重されないらしい…
尊厳死を認めてほしい。
他人に自分を殺す決断をさせるのではなく、「あらかじめ決めた事」として送り出してほしい。
そんなこともできない国が福祉大国になれるはずがない。
父親が胸痛で倒れて救急搬送、一命は取り止めてもらいました。意識もはっきりしていて、ただわからないのが一度もかかったことのない病院の5Fに入院したためか段々見当識が不安定になって咀嚼できても飲み込めず、医師から点滴治療を勧められました。
その時胃ろうの話は出ませんでした。寝たきり生活が長くなるからとい理由です。
でも 私と過ごした昔話はちゃんと噛み合ってたし、仕事の話も、部下のお見舞いも親戚もちゃんと認識してました。嚥下障害=死んだ方がましという医師の判断にとても苦しんでいます。
もう3年以上たちますが、お話ができる人に長くなるから胃ろうはしないと言う考え方は受け入れられません。
もちろん私だって目が天井を見詰めたまま、無反応で脳死のような植物状態なら胃ろう手術は却って本人の意思に反すると思っています。
この記事の筆者さんも、賛同している方たちもきっと身近にはそういう方がいないのでしょう。
延命は拒否、というのは分かります。私もそうです。けれど、例えば 長い間ガンを患っていて、いよいよ呼吸もままならない、人工呼吸器に繋ぎますか?または、胃瘻を作りましょうと言われた時などは拒否と言いやすいかと思いますが、例えば脳卒中で倒れ、回復の見込みがあるが、栄養状態が悪いという時などに、胃瘻や点滴を拒否し、餓死させることを選べるのでしょうか? 分かりやすいケースばかりではないのです。
こういう問題は、一言では片付きません。このように、寝たきりの老人がたくさんいることが問題だという視点は、ひいては、医療費を無駄に使っている老人や障害者などは排除すべきと言う考えに至ってしまうのではないかと危惧します。
まさに 今後大きな問題ですね。
病院で死ぬ事が出来るのか? 入院する事も介護を受ける事も難しくなってきますね。
平均寿命と健康寿命。
歳相応の体(病気を含め)受け入れる事が出来ず、いつまでも若いときと同じような数値を目指して薬をあれこれ飲む。
その事も医療費の負担を増やしているように思います。
70歳・80歳に見合う程度の健康管理で良い気もしますが、実際にその歳になったら欲が出てより一層若く健康で居たいって思っちゃうのかなぁ
一部の方のコメントを読んでいるとやたら一方的な価値観を押しつけて、
尊厳死が正しい、即ち日本は医療は大衆は間違っているとばかりに主張なさる方が多いですね
死に様に正しいも間違いも無いと思いますよ
死とは誰の物でも無い自分の物です
自分で考えた哲学が自分で考えた哲学以上になることは無く
そこに価値観の優劣など有りません
北欧的だろうと日本的だろうと優劣を付けたがるのは他人の価値観にすがろうとしている表れだと思います
大事なのは選択の自由
日本では尊厳死が難しい一方
それで北欧ではその体制で延命治療が十分に叶えられるのでしょうか?
個人がどちらでも選べる医療体制、許容出来る社会体制、それが大事なのでしょう
「それでも生き続けたい」、と言う人を自動的に排除する医療ならば
北欧の方も間違いだと断言したいです
日本でも選択の自由が不十分ならばその体制は非難されて是正されるべきですが
それは決して「尊厳死が正しい」という話では無いということを忘れてはなりません
「選ぶことの難しい社会の罪」と「死の哲学の優劣」はハッキリと分けて考えなければなりません
否定的な意見を述べておられる方が
非常にヒステリックな感じがするのが気になります。
個人的には、死んでいないのと生きていることは違うと
思いますし、自分がそのような立場に立てば
無理な延命は望みません。
例えは悪いですが、おいしく食べられなくなるほど
食べたら、食べるのをやめたらいいんです。
本人の立場に立てば無理強いされるのは辛い。
否定的な方は、もうお腹いっぱいと言っている人に
食べられるならもっと食べろと言っている人のように
感じてしまいます。
次元が違う話ではありますが、ふとそう思いました。
生きるための医療ではなく
死なせないための医療だと思います。
色々ケースのコメントを見て
全てに当てはまるとは思いませんが...
母親も延命治療を望んでいないし
私も同じ考えです。
不治の病に罹患した時は
リビング・ウィルを用意しようと思っていましたが
いつ何があるかわからないのが生命ですから
何もない今こそ、用意すべきだと思いました。
先月17年介護の末母を看取りました。
誤嚥性肺炎の為食べ物も食べれなくなり
医者に行ったらすぐさまいろうして治療と
言われましたが、17年の間に母の最期は
家で逝かせてあがたかったので、はっきり
お断りしました。
私も今の高齢の医療問題にはつねに考えさせられます。
自然に逝かせるのは無理なのか?
人間の尊厳って何?
今回特に考えさせられました。
難しい問題かもしれないが、生かされて本人は
幸せなのか?
家族は辛い選択かもしれないが食べれなくなった
=死ぬときだと考えるのは無謀なのか?
でも私は後者を選びました。
それが母の幸せだと思ったので
17年一緒に暮らせて事だけでも母が感謝して眠るように逝きました。
今日は49日です。
入院したとき、延命治療を受けている患者を見る機会がありました。
管だけ付けて個室に放りこんで、後はひたすら放置。
家族が来るのなんて一ヶ月に一回あるかないか、それも1~2時間程度。
それ以外は本当に放置。
誰も見ない、その部屋から漏れるうめき声も誰も聞かない。
看護師さんも、そういう患者の部屋を通るときは顔を背けて足早に、見ない振り。
病院は、忙しい場所です。
スタッフも、これから確実に死ぬ患者に構うよりは、頑張れば助かるかも知れない、若い患者に力を注ぎたいのでしょう。
そういう場所で、「早く死なないかしら」という心の声に晒され、身動きすら出来ず、まだ生きているのに存在しない者のように扱われて最後の時を過ごす。
私には、医療の自己満足にしか見えませんでした。
自然界の中で人間の命だけに特別な価値や尊厳があると考えるのは、そもそも人間自身が作り出した幻想に過ぎない。
もっと自然に身を任せて、流れるように生き、そして終わりを迎えればよい。
もしその中で何か道筋を選び、何かを決めるべき時があるのであれば、その意思表示をするのは自分自身以外の何物でもないだろう。
他の方のコメントと言い、すごく考えさせられます。
自分の祖母も胃ろうが作られ、生きてる限りモノを飲み食いすることはない。
そして今となっては何も見ない、動かない、話さない。
私には「生き地獄」とも思える環境で彼女は一体何を思って、何を望んでいるんだろう。
その答えは永遠に知ることはない。
それでもその無表情だが、確かに生きてる顔が見たくて
施設に通ってしまいます。
楽にしてあげたい。
でもやっぱり触れたいです。
介護自殺もなくなる
本人が決めることができればいいよね。そのためには死生観をしっかりと持って家族と共有することが大事。
脳卒中の場合、「延命処置」として始める訳ではありません。
急性期の治療のひとつとして行われます。
まず、意識を失い、救急車で運ばれ緊急手術。
集中治療室で意識が戻るまでの間、補助的に呼吸器を使い、点滴や経管栄養が始まります。
意識が戻らないまま、回復期の病院に転院、さらに療養型の病院へと転院。経管栄養で生き続ける植物状態となります。
経管栄養を始めてしまうと、やめられないのが現状。リハビリに期限(150日?)があるように、経管栄養などにも期限を設ければよいのです。
この記事に賛同されている皆さんは「高齢者の終末期」のみを議論されている、という理解でよろしいですね?
胃ろうや人工呼吸器を使って、青春を謳歌している障がい児者のことは「別」ということでよろしいですね?
さらには「自然死」推奨ですから、もちろん不自然な「臓器移植医療」については同様に否定されるということでよろしいですね?
誰かが死ぬことを待つ医療にも「尊厳はない」ということでよろしいですね?
以前より寝たきりの延命には疑問を持っています。
記事の通りであるのならば自分にとっては理想のような気がします。
ただ、寝たきりで延命するか否かは当人の選択であろうと思います。
ただ、医者は必ず寝たきりを選択するでしょうからその時点から患者や家族の治療に関する意見を反映していただきたいと希望します。
延命のみを是とせず人の尊厳とは何か医師以外にも全ての人が考えていただきたい。
まずは、自分の親の世代の意思を家族で確認するところから始めるべきかと思います。
2ヶ月前私の祖母(96)が脳梗塞で倒れ、本人は延命治療は望んでいない。子供たちに介護や迷惑をかけたくないので何かあったら楽に死なせて。
と常日頃言っていました。ですが地元では有名な脳神経外科に運ばれその旨を伝えましたが、目が開いてないし呼びかけにも反応しない。けれど点滴・胃ろう・リハビリをさせられリハビリ中、うっすら目が開き涙を流し始めました。
その後も何度か肺炎になっては抗生物質だのなんだので繰り返し。目を開けるたびに涙流しています。
あまりにも可哀想になりせめて座らせるリハビリをなくせないのかと聞いたら、先生が最善の処置をしているのに不満とは。
それやったらここから出て行ってもらって他の病院へ行ってくれて結構。
と怒鳴られました。
その後も祖母が苦しそうに唸っているので母が泣いていたら
その涙は何ですか!
と怒鳴れました。
歳が歳だしそこまでして頑張って生きないといけないのでしょうか。
結局、肺に水が溜まる一方で体が信じられないくらいはれ他の病院へ移ることになりましたが、その移動でも救急車に物がいっぱいで付添人が入れるかな、と看護師さんが言うのでタクシーで行ってもいいです、と話をしていたら師長さんが移行中に何かあったらどうするんですか。責任取れませんよ。とまた怒鳴り。
結局、病院はどれだけ死なせないかが大切で患者にとって何が一番か関係く病院のために生かされているんだなって思いました。
長々と失礼しました。
今現在そういう風に生きてる方に死ねって言ってるようなものですね。
結構酷いこと書いてるしコメントでも賛成とか多くて驚いてます。
寝たきりが悪いわけですか?
動けなくなったら食べれなくなったらバイバイって考え信じらません。
今まで自分達や国を支えてくれた方をそんな簡単に切れる考えが理解できない。
本人の意思みんながみんな死なせてくれではないでしょう。
自分達が結局楽したいだけで言ってるようで非常に不愉快です。
私は両親の最後を私一人で世話しましたが、どちらも病院側に延命処置はいらないといってあり、そのようにしてもらいました。
日本でも、意思表示すれば十分に可能です。
平均寿命が、世界一長くなっても幸せとは限らないと思います。
私の場合、50歳を過ぎた頃から明らかに身体の状態の変化起きました。以前とは比べものにならないくらい様々な記憶力をはじめ身体の機能が大幅に落ちました。生物的には、50歳あたりがひとつの限度なのかもしれません。
年金制度はじめ他の社会保障制度もこれだけ平均寿命が延びることは想定していなかったはずです。長生きして子どもに迷惑をかけてしまうことを怖れます。できれば、尊厳が保てるうちに亡くなりたいものです。
そのためには、自己責任で尊厳死できるように準備が必要なようです。
おっしゃることはわかります。
自分がそうなったときには、延命措置をしてほしくはありません。
しかし、私の祖母は、家族の笑顔を心から望む、そんな人です。
今は、だいぶ認知も入ってきていますが、私や母の問いかけ、
最近生まれた兄の子、つまりひ孫の写真を見るたびに
笑顔になったり、涙を流したりします。
その笑顔を見て、家族は幸せを感じ、笑顔を浮かべられます。
祖母は寝たきりが改善することも、認知が回復することもないでしょう。
しかし、だからといってやはり祖母が死を望んでいるとは考えられないんです。
このようなケースもあります。
みなさんには、このことも認識していただければと思います。
ふらりとツイッターからお邪魔しましたが、ここでは胃ろうの問題点がクローズアップされているようなので、一応プラス面の経験を報告しますね。
私の母はパーキンソン病が進み3年前くらいから寝たきりになっています。で、いっとき口からの食事がかなり困難になったので、胃ろうを施してもらいました。
ただ体調の良いとき、少しでも口からの食事がリハビリになると考え食べさせたりしていました。以前は身体の自由がほとんどきかず、言うこともあまりまともとはいえなかったのですが、最近では、人間らしい?話もでき時には冗談もいうようになっています。
胃ろうと尿道カテーテルがずっとついたままですが、単なる延命ではなかったと喜んでいます。
また、胃ろうがついていると、家族が忙しくて食べさせてあげる時間的余裕がないときにも助かります。
私は、最近では、老人の治療に対しては、一般の人の意識(常識的な思い込み)の落とし穴、たとえばこうなったらもうよくならない、とか、医者の言うとおりにしないとよくならないとか・・の方が悪い作用を及ぼすことが多いのではないかと思っています。人の生命力を活かす治療や看護、介護を大切にしたいと思います。
尊厳死ということには私も同意ですが、これはある意味、ある程度助かる確率があっても思い切りよく死を選ぶ、ということでもあると思っています。
私は現在72歳で健康ですが、そろそろ人生の終末を考えなければいけないのでしょう。
私も胃ろうまでして生き延びたいとは考えていませんが、私が終末医療を拒否した場合、家内が心配です。
現在私たちは一応厚生年金で暮らしています。しかし、私が亡くなったら年金も打ち切りになってしまい、家内の僅かな国民年金だけでは、彼女は暮らしていけません。
どのような事態になっても生きてさえいれば年金は受け取れますので、終末医療を拒否するのをためらう気持ちがあります。
同じような環境の人たちは、それでも終末医療を拒否するのでしょうか?
悩ましいところです。
自ら積極的に死を選ぶことは『自殺』と呼ばれます。
生活が十分に可能な人がこれを行うことは、多くの人が否定します。
私も、一時の勢いで死を選ぶことは反対です。
しかし、それでも自殺する人が多いのが日本です。
そして一方で、老人の死を恐れている。
なんだか滑稽な話ですよね。
『死』というものについて、
考えることを避けているように思います。
過剰に恐れてしまったり、
周囲の人が根拠もなく自責感を覚えたり。
悲しいことではありますが、
やっぱりいつか、人は死ぬんですよ・・・。
いくら死なないように頑張ったって、
死ぬまでの時間が長くなるだけです。
みんな死にます。
好きに死なせてあげましょうよ。
自分たちが責められないために生かすのか、
(責められると思っているのがそもそも幼稚なのですが)
それとも、死ぬことを当然と受け入れるか。
自分たちは人の死を止められる?
止められない自分たちに無力感を感じる?
どれだけ思い上がってんの?って話ですよね。
死ぬんですよ。人は。
悔しいけど、受け入れましょ。
そして、せめて静かに送ってあげましょうよ。
> その点を述べない北欧福祉論は良いとこ取りのまやかしです。
制度を維持できる金もないのに、借金まみれで高度な医療・福祉が受けられますとか言ってる日本福祉論のほうが、まやかしとごまかしに満ちている。
実母から20年前に、延命治療拒否の書面を預かっています。今回、ケアマネさんとのお話で
書面を預かっているという話を母も交えてしましたら、たった一言、
『効力はありませんよ。』
自分の意思を表しているのに、それが通用しない世界です。まわりの看護師さんや介護職の方々も完全にマヒしています。人間は死なないと思っている人ばかりです。
もしそうなったら・・・で考えるのと、実際その時がきたのではやっぱり人間思ってた事と行動が違うというのもあると思います。現に私達家族がそうでした。
元気いっぱいだった母が今年1月に脳梗塞で倒れ、術後の症状が重く、最悪の場合は人工呼吸器を勧められました。
母が倒れる前は人工呼吸器は延命措置にしかならないので呼吸器付けてまで生きていたくないよね。というのが私達家族の認識でしたが、その日の朝まで元気に喋ってたのに目の前には意識が朦朧となっている母を見て、どうしてもまだ生きていてほしくて、医者にすがる事しかできなかったというのが現実でした。
幸い、症状が落ち着き人工呼吸器は付けなくてよく今は少しずつ回復してます。でも、もしその当時、人工呼吸器をつけないと命の保障がないと言われてたらお願いしたでしょう。
家族のエゴかもしれないですが、いきなりの病には1%でも希望があれば延命措置をお願いしてしまう事も少なくないかと思います。
スエーデンでは寝たきりの高齢者を見かけないのは事実です。そうした北欧の国の背景をみると、バンクーミケルセンの社会活動が頭に浮かぶ。彼は知的障がい者の施設の生活が管理優先の支援であり、施設ではなく地域で生活することがノーマルであると指摘した。その後、ノーマライゼイションの理念は世界的な影響を与えていくのである。その理念とは「高齢者も障がい者も健常者も共に地域で生活することがノーマルな社会である」とするものである。
我が国でも、ノーマライゼイションの影響等により、戦後60年を経過した段階で福祉サービスは「施設」から「地域」へ、「措置」から「契約」の流れが生まれてきた。つまり、ノーマルな生活とは、寝たきりになるプロセスの中で本人の意思を尊重する。及び、意思行為能力の低い方であっても可能な限り本人の意思を代弁する必要がある。
これらを実現するためには、高齢者本人の自己決定を可能にする社会システムが必要である。延命処置を希望する高齢者はそうすべきであり、延命処置を希望しない高齢者にはそうすべきである。一人ひとりの高齢者の尊厳を大切にするには、自己決定を可能な限り実現するべきである。それを可能にするには、地域の社会資源の状況を熟知したソーシャルワーカー(地域包括支援センターの社会福祉士等)が重要な役割を担うことになろう。
ソーシャルワークの自己決定を促す実践の蓄積により、寝たきりの高齢者の生活の質に関する我が国の価値観が形成できるのであろう。契約は民主主義の根幹である。
胃瘻を造設するかどうかを決めるのは本人ということにするべきではなかと思います。
医師や家族の都合で勝手に胃瘻増設できる現状が問題ではないでしょうか。
本人に判断力があるかどうかが決め手になります。
同様に人工肛門や、尿カテーテル、人工透析なども本人の意思の確認を前提にすべきではないでしょうか。
問題点が2つ。
1.日本では、入院患者に胃ろうや経鼻栄養・点滴などをせず、患者が死にいたった場合、たとえ家族が望んでいたとしても、医師が罪に問われる可能性があります。医師は、訴訟や警察沙汰になることを一番恐れているのです。
治療を止めれば死ぬことがわかっている状態で、治療を中止することは、「未失の殺意を持っていた」とされ、下手をすると逮捕されることを覚悟しなければなりません。
在宅での衰弱死なら、医師の責任は問われず、家族の問題とされます。ただ、食事が摂れなくなると、みんな病院に行くんですよね。「食事がとれないので入院させてください」と。
2.手足は少し動いて、家族と話すことができて、それでも「嚥下だけはできない」人もたくさんいます。そういう人に、栄養剤の投与を中止して「餓死」させることに、実際には家族が動揺することが多いのです。皆さんは、「のどが渇いた」と言いながら弱っていく肉親を、そのまま見守る覚悟がおありですか?
個人的には延命治療には否定的な立場ですが、「医者が悪い。営利的だ」という単純な話ではないのです。
延命治療を止めることが、法的にも、世間的にも認められれば良いのですが・・・
欧米では治らない病気の人に治療を続けても無駄という社会常識が確立しているので、胃ろうや呼吸器を選択する人も、その治療をしている人も、なかなか理解されません。胃ろうや呼吸器を付けても生きていきたいと望む難病患者は、家族に迷惑をかけて「わがまま」と言う風に言われてしまいます。また、そのような治療を実施する医師や家族は白い目で看られてしまいます。
一部のお金持ちだけが自腹で治療を続けています。そんなケースは稀ですが、自己責任が取れるのであれば認められます。
これらの国では、在宅人工呼吸療法等の技術がないに等しいので、自宅での高度な看取りができないので、患者は低いQOLのまま放置されています。だから治療をしない。介護できないから、かわいそうだからです。それで、ほとんどの神経系呼吸疾患の患者に呼吸器の説明がなされません。日本でも地域医療の遅れた地域では同様です。高度なケアの継続を必要とする治療はしてもらえません。
北欧の福祉国家は、乳幼児や高齢者や障害者の中で選別をして、その中で弱い人を切り捨てているので成り立っています。
日本もだんだんそういう方向に進んでいますね。皆さんのコメントを読むとわかります。
弱い人を切り捨てる世知辛い世の中になっていきますね。
ALSやSMA、障害をもって生まれてきた子供たち、体力の弱った高齢者の命は風前のともしびです。
私の母親は心臓手術後・せん妄状態で4ヶ月ほど気管切開・胃ろうで過ごした後
意識回復し、今ではまぁ足がやや不自由(杖付き歩行)にはなり、
健康とは行きませんけど、数種類の薬を飲みながら百病息災ぐらいの状態で
5年目も生きてます。近くのスーパーへの買い物や日常の食事洗濯などの家事も
こなせるようになりました。
というわけでケースバイケースで何が良くて何が悪いかは区別できないと
思います。ただ、命が1つなだけに多くの人は奇跡を信じますよ。
確率で判断して宝くじを買わない人も多いですが、宝くじを買う人も
これもまた多いということも無視できないと思います。
当たらないから買わないよというのは1つの理性的な見解だと思いますが
当たらないからお前も買うなという話になるのは反対です。
幸い意見の方は前者の方が多いのですが、医療費の削減の話になると
後者の意見が多くなるような気がします(スウェーデンの話は後者では?)。
難しい話です。
結局、延命はいらないと言ってるのは治療を受ける本人ではないんですよね。
「かわいそう」とか「尊厳」とか言ってるが、それも別の思い込みではないかと思う。
コメント欄では日本医療に否定的な意見が多いですが、そのように「医者のせい」「国民の意識のせい」と自分ではない誰かに責任を押し付けている限り、何も変わらないのでは?と思います。
「自分はこう考えているのに、社会がダメだから」みたいな論調が多くてびっくりしました。
私は延命治療を希望すると思います。
一分一秒でも長く、この世界でいきていたいから。
それが私にとっての最善だからです。
現場で働く脳外科医です。職業柄、他臓器は比較的問題ないが意識状態が悪い患者を本当に沢山拝見しています。
小生のように、「不要な」胃瘻に反対医師は多いです。
しかし、御家族は死を避けたがります。最近は減少しましたが、かつては病状説明の場で胃瘻を造設しない選択肢を挙げる事自体を、御家族から「見捨てるのか」と随分怒られました。
また元気だった頃に患者本人がいくら強い意志を示していても、脳卒中などの突然別人になってしまう病気に遭遇すると、家族が患者の意思を曲げます。パニックになって命だけはまず助けてくれ、と主張します。
日本の医療体制にも問題あります。脳卒中急性期を過ぎた患者を、最初に入院した急性期病院に長く入院させる事ができません。医療費が破綻しそうな事に原因があります。
では、その原因は何でしょう。全てとは言いませんが、いくら指摘してもたばこや酒や甘いものをやめないで透析になったり脳卒中になったりする患者もいます。税制の不具合もあります。少子化が叫ばれて久しいです。前述の宗教や文化の違いもあるでしょう。
不要な胃瘻は避けるべきと考えますが、単に良い事ばかりが表面化して、内実の不可欠なものに差障りが出てしまう事を恐れます。
胃瘻を作る側の人間です。
こちらのお話を読んで、とても感銘を受けました。同じような風潮になれば・・・とは思うのですが、現時点で実行しようとするのはなかなか難しいとも感じました。
まずは点滴信者の多いこと。
食べられなくなった状況で、点滴もしてもらえないのか、と考える人は、本人でもご家族でもとても多いように思います。
食事が入らないといわれ来院され、点滴が連日のようになってくると、入院を希望されます。入院となると、病院も慈善事業ではないのでコストを考えなければならなくなる。長期の末梢点滴でも数か月で枯れてはしまいますが、その間病院は赤字になることが多いです。
ベッドの回転をよくし、赤字を避けるためには次の行先をみつけなければならない。行先を見つけるには胃瘻が・・・
という流れになってしまうう。
胃瘻拒否の風潮とともに、点滴信者も減らないと、あるいはそういった患者でも赤字にならないようにしないと、小規模病院ではきついなと感じました。
急性期病院に勤務する医師です。神経疾患が専門で、病気のために食事を食べられなくなる患者さんも多いです。ほとんどが食べる機能が回復不能で、患者さんご自身の意思が確認できない場合は、ご家族と方針を話し合います。
私自身が幼かったころ、祖父が認知症の末期で食べられなくなり、自宅で臨終を迎えました。その経験を踏まえて、口から食べられない状態を病気の自然の経過と受け入れて経管栄養はしない、という選択肢を必ず提示します。
しかし、ほとんどのご家族が経管栄養をご希望されます。経管栄養をしなければ患者さんを死なせてしまう、という気持ちが先行してしまい、思考停止に陥ってしまっている印象です。
幾つかコメントにあるような医師や医療機関の問題などという話ではなく、日本人の死生観が問われているのです。多くの人に、このような事実ときちんと向き合って考えて欲しいです。
手を振って 小春日和を 父は逝く
・・・父の旅立ちにふさわしい朝だった。
楽しかった、楽しかったと振り返り、しあわせな人生だったと繰り返し語って逝った父。
残された人生が、あと1日か1週間か1ヶ月かそれは神様にしか分かりませんと主治医に告げられてから6日目のことだった。延命治療を選ぶか否かを問われ、私は即座に父がそれを望んでいないことを告げた。
これはきっと最後の親孝行だと信じたからだ。
父は最後の6日間で、人間はどの様に人生を終わらせるのかを私にしっかり教えてくれた。
体格のいい堂々とした父の体が少しずつ小さくなり始めたのは、数ヶ月前からだった。
2ヶ月まえからは輪郭がぼやけるような感じさえし、空気に溶けていくような透明感が伝わってきた。
77歳の誕生日に桜を見に奈良へ出かけ、喜寿のお祝いに家族で夕食を囲んだ際、きれいな桜だったと嬉しそうだった父。
大げさな父は元気な頃から毎年のように、あと何回桜を見れるだろう?と言って、家族を驚かせていたものだったが、
その春は一度もそれを口にしなかった。そのときは不思議だったが、今となってみると分かっていたのか?と思い出す。
そして、少しずつ眠る時間が増え、食事をしなくなった。
人生を終わらせる人間にとって必要なことと不必要なことが何かをじっと見せてくれた。
だからこそ、不必要なことが見えたし、父が不必要なことはするなと言った意味も理解できた。
この理解する瞬間を、今あまりにも多くの日本人は逃しているような気がする。
人は誰でも、人の死を通してしか死を意義あるものにできないと思う。
こんふうに人生は終わるんだよ・・・と、潔くごく当たり前のことのように笑って手を振って逝った父。
だからこそ、私は今父に感謝して日々を過ごしている。
宗教観の問題ではなく、なるべく個人が責任を負いたくないという国民性、ひいては日本と言う社会の在り様の問題ではないでしょうか?
生死を分ける決断に対し、延命措置を選ばなかった場合に、世間や親族から何かしらの非難を受けることは想像に難くありません。医療従事者も同じです。誰も責任を取りたくないのです。
そうなると、むしろ孤独死もいいのではないかという極論になびきそうで怖いです。
多様な選択を認め合う社会への意識変革が行われない限り変わらない気がします。
私も宗教の違いと思い、タクマン先生にそのことをお聞きしましたところ、「スウェーデンでも今から10数年前までは経管栄養の患者がたくさんいた。しかし、今はもういない。だから、宗教の問題ではない。日本でも(胃ろうをなくすことが)出来るはず」と言われました。
たしかに宗教の違いはありますが、それがおおきな要因ではないと思います。
父が肝がんに亀裂が入り出血で入院したとき、ドクターが「C.Tとかの検査も病人にとってはきついからやめましょうね?」 この言葉が今でも感謝の気持ちでいっぱいです。少し落ち着いて自宅に戻り、在宅介護をすることができました。
それから2年「俺のような病気はいい、痛くもかゆくもなく、食べるものは何でも美味しい」と言っての日々でした。88歳で安らかな最後の時も自宅でみんなと握手もでき、孫たちにかこまれてのおわかれでした。気持ちがいいと喜んでたテルミーと家族の愛情が延命処置につながったと思います。
合点のいくお話でした。ありがとうございます。
「お上」という上方の概念はあっても「神」や「天」といった絶対的な真上の概念を持たない日本人においては、絶対的なものの代用として「死」を考えるという説があります。これに基くと「死」さえ避けられれば本人の苦しみや尊厳さえも気にしないという考えが生まれるのかもしれません。このような日本においては、自分の尊厳を自分で守るということも必要なのでしょう。
こんにちは。
すばらしいサイトを発信していただき、ありがとうございます! 感謝します!!
わたしも、常に、このことを考えてきました。
医療側は、患者のことを、自分の立場にたって考えれば、現在のようなヒトの尊厳を破壊する医療行為は決して、できないはずです。
意思疎通能力を失った人を、物体として扱い、延命治療をすることは、医療側にとって利益をもたらすものかもしれませんが、患者の家族の心を深く傷つけ、家族に生きる意欲を失わせ、また、本人は、天国(または地獄)で、非常に、恥ずかしい思いをしていることを考えて、医療側は、家族とよく話し合って、対応をしていただきたいものです。
スウェーデンへ留学しておりました。
やはり寝たきり老人は存在せず、驚いておりました。
世界中からの留学生がいてディスカッションしたことを覚えています。
1、宗教観が違い、死に対する考えが違う。
キリスト教では脳死であり、意識がないことはたとえ息をしていても死である。当然、胃ろう、IVH等の行為は再生を妨げるため、悪であるとの認識があるようです。
2、最終決定権が医師にある。
治療決定をするときには頻回にディスカッションしますが、家族が延命治療を望んでも最終決定権が医師にあり、断ることができます。
いまの日本では延命治療はなくならないのではないでしょうか?
私の祖母は十年の闘病生活の末になくなりましたが、後半は発熱との戦いだったそうです。一時帰宅の許可が出ると熱が出て許可が撤回になってがっかりする、その繰り返しだったそうです。
そんな祖母は、胃ろうの手術後1ヶ月ほどで他界しました。その頃には認知症も進行していて、貯金も尽きて、胃ろうをする事で次の預け先が決まったから、という経緯があったと聞きます。
祖母に貯金がなければ、家族はもう少し早く胃ろうを選択していたんだそうです。
しかし、「胃ろうを選択しない」人が増えてくれば、そういう人のための施設やサービスが増えてくれるかな、と思います。問題提起ありがとうございます。
現在、胃ろうを選択されているかたの気持ちは敢えて考えずに、率直に言えば、胃ろうは「死亡」の診断を恐れる医療関係者、家族のためのものであって、胃ろうを施される人のためのものではないように感じます。
もっというならば、医者は自分の患者の「死」が負けであるかのように感じていて、患者の家族に「死なせない」方法を提示し、家族は目の前にある「死なせない」方法を放棄することが家族を見捨てる行為であるかのように感じてそれを選択してしまうのではないでしょうか。
もっとうがった見方をすれば、病院側にとっては胃ろうをすればずっと患者ですから、儲かるのかもしれません。
医者がその選択肢を患者の家族に提示することは、家族に生死を選択させるようなことで、酷な気がします。
食べられなくなり衰弱して死を迎えることは生命の自然な流れであることを理解させて、その心構えをさせてあげることが医者にしてほしいことだと思います。
私自身も胃ろうはしたくないし、親がその場面に直面しても断りたいと考えています。
心臓が動いてさえいればいい、とは思えないからです。
数年前に猛暑のパリで8000人近い老人が熱中症で亡くなりました。ニュースでは報道されましたが、日本なら政府がひっくり返るくらいの問題になったでしょうが、フランスでは社会問題にはなりませんでした。宮本先生のレポートを読み、なるほど、こういう基礎的な考えがあったのか―、と納得しました。
老人の養護施設へは何度もいったことがありますが、胃ろうを受け、殆ど意識もないような老人をみるのは耐えられない思いでした。聞けば、一端人工的な栄養補給を始めると、止めることが出来ないと言うことでした。また、人工的な呼吸、栄養補給などを行わないと「生かす努力をしない」など、患者の家族があとになって訴訟をちらつかせることもあるようです。
医療法などの問題もあるようですが、我が家では「口からものが食べられなくなったら、延命措置をとらないようキチンと書いておこう」と話し合っています。
先日、楢山節考を読み返しましたが、決して残酷なだけとは思いませんでした。遠野のデンデラ野も見方によれば悪くはないと思います。日本では誤った人道主義とかを振りかざす勢力が、却って自然の人間の営みや倫理観をゆがめているようにも思います。
父母の最期を看とった体験からいっても、「口から食べられなくなった」ら、もう解放してあげましょうよ、私にもそうして下さいませ」と、私も言いたいところです。
それこそ、まさに自然死でしょう? それでいいではありませんか?
父母の最期については、素人はその場では何が何だか分からないので、お医者さまの仰る通りにお任せしてしまいましたが、後になって、医療関係者が自分たちの責任逃れのために「最善を尽くしていた」のではないか、と考えずにはいられません。
老人の延命治療の医療費は、若い人たちのために使ってほしい!
宮本顕二氏の仰るとおりです。日本の医療は異常です。たぶん厚労省と日本医師会でそういう国民のコンセンサスに長い年月を掛けて誘導したのでしょう? そして今では莫大な医療費が社会保険から支払われている。赤字を補う為に消費税を上げようとしている。厚労省官僚と医業界と製薬業界を焼け太りさせる仕組みです。
私も、同じように考えております。夫にはそう話し、子どもがもう少し大きくなったら、その気持ちを話そうと思います。
日本の医学の力は有難いですが、家族の負担、そして、多くの若い世代の方々の負担を増す訳にはゆかないと思います。
人間、いつ、どうなるかわかりませんから、健康を気遣いながら、家族を思いやり、最善を尽くして「今」を精一杯生きたいと思います。
Facebookで上記のサイトを知り拝読させていただきました。日々、現場、特に在宅で診療にあたっている医師です。
ここまでがんばって人生を切り盛りしてきた80歳代、90歳代の方たちが、最後の最後に来て、それでも「がんばって」生き長らえさせられる状況に大きな違和感を感じます。そうして「生き長らえさせられた時間」は一体誰のためのものなのでしょうか。これまでの人生を振り返り、終末期に向けた準備を、本人も、家族も少しずつ行なっておくことが鍵のような気がします。命はいつまでもあるのではなく限られたものであること、生きている間にしかできないことを、生きている時間を大切に向きあうこと...往診や外来で関わりを持つ患者さんや、家族たちに「準備」をしていただくようお願いしていますが、なかなかピンとこないことも...30数年の間にあまりにも「非日常」と変わってしまった「死」は、本来、日常の中の一部であるはず。もう一度、日本人にとっての「生きること」「死ぬこと」に対する価値観、文化の醸成が求められているのだと思います。
私の父も一回目の脳梗塞で右半身が麻痺、失語症になり、リハビリで歩行できるようになりましたが、失語症は回復できませんでした。10年後に2度目の発作がで、寝たきり、意識がなく、胃ろう、点滴で延命してました。病院での治療は、薬だけで、特に治療はありませんでした。
3か月目に他の病院に移るよう催促され、2度、病院を移転しました。父が亡くなった最後の病院は、地獄ですね。もし父が意識があったら気が狂うのではと思う病院でした。意志表示が出来ないで胃ろう、点滴での延命治療なら、拒否したい。
身内には言っておきたいですね。安楽死の選択ができればいいかな?
私の母は現在91歳になり、介護施設に約7年間お世話になっています。痴呆症も患っており、何も分かりません。ただ、食べて、排出しているだけです。そんな母をみていると「命」ってなんだろうと、いつも考えさせられます。
私は自分で動けなくなったら、食べられなくなったら、笑顔が消えたら死んだ方がしあわせと確信しています。自分のため、そして家族のためでもあると考えます。
呼吸をしていれば「生きている」と言えるのでしょうか。できることなら、自分の最後くらいは自分で決めるような死に方をしたと思っております。
希望がなくなったとき、笑顔が亡くなったとき、医療の世話にならなければ生きていけなくなったとき、それは「新しい死のあり方」だと思います。
日本は先進国だと言われていますが、本当にそうでしょうか・・?
生きることへの願望は人以上に強いが自己の反省と責任は人任せなところが有り、これが先進国と言えるのでしょうか・・?
生きることとは、自力で生きる事なのに周りの色んな事で助けられていることを忘れてしまっている様で、それが当たり前と思っている。
違った発言すると非国民的な考え方と非難される。
人の命は尊いが余りにも過保護的に拘束をしてしまっているしか見えない。
父は多発性脳梗塞を起こし、鼻に管を通して栄養を入れる人工栄養で1年半の闘病生活を送りました。
胃潰瘍で胃の半分がなかった為、胃ろうが出来ませんでした。
誤嚥しないように、口からは1滴の水さえ含ませる事が出来ず、鼻から通したチューブのみ。人口呼吸も同時にしていました。
どんなにか苦しかったことでしょう。でも、家族にとっては、息をして生きていてくれさえすればいい・・その思いだけで父を繋ぎとめていました。鼻か繋がれたチューブだけで生きていた父。
父が亡くなって6年経ちます。
今も、あの苦しそうな顔をして、必死に私達家族の思いに堪えていてくれた父の顔が浮かんできます。
現役時代に毅然と仕事をしていた父。
父の尊厳を奪ったのは、父と離れたくない・・
そう思った私達家族の我がままだったのかもしれません。
父が亡くなった後、ベットサイドから腰紐が2本出てきました。主に24時間在宅看護をしていた母が、何時でも使えるようにと隠していた物でした。
寝たきり老人がいないということと、少ないということは同じではありません。90年代後半、ナーシングホームにおける寝たきり老人はおよそ4%であるという政府報告書があります。
通常、民族的な倫理間、道徳間は風習、宗教に根ざしている。基本的にインドから東と西では倫理観が大きく違うのだが、日本の場合、宗教的な心のよりどころが非常に薄いので個人の人権やら尊厳はほぼ存在しない。宗教の変わりに「世間体」が絶対であり個人の主観は二の次となっている。欧米のキリスト教に根ざした倫理観とは線を画する。
高齢者の末期患者延命治療はどれほど税金の負担が大きいのだろう。
日本が長寿国である理由がこの延命措置にあるとしたらなんとも複雑な心境になりますね。
胃ろうも両手拘束も初めて知りました。
結構衝撃です。
わたしも、もしその状況になったら希望しないですね。
植物状態の若年者について教えてください。
兄が10代前半の時、交通事故で、当時、植物人間(現在もこの表現は使われているか不明ですが)と言われる状態になり20年近く家族で面倒を見て看取りました。
結局、最後まで意識は戻らず口から食事もできませんでした。
私自身、家族もそれが正しかった事か納得ができる答えは出せていません。
兄がなくなってから父の認知症が発病しました。
父のを含めて延命処置の話をするのですが、結論が出ません、本人は延命処置はどちらかというと否定的だと感じますが、兄が生きているだけで家族の支えになっていたのは事実です。(私たちの場合経済的問題はなかったからかもしれませんが)母は父が兄のようになっても最後まで、面倒を見たいといいます。
最近、延命治療は家族のエゴなのかそれとも病人が最後にできる家族への恩返しなのかとも考えてしまいます。
10年ぐらい前、確か、アメリカで植物状態の人に栄養供給を止めて安楽死するニュースを目にしました。
兄の事を納得して前に進むためにも海外の例など教えてもらえれば幸いです。
全て欧米をまねる(学ぶ)必要はありませんが、寝たきり老人の問題については、はっきりしているのではないでしょうか。
安楽死とは違った範疇の問題ですが、人間の尊厳は人権のもっとも基本的な概念です。
医が算術になって久しい。寝たきり老人の問題は色んな原因と経緯があって現在に至っている。患者の親族にも大いに問題はあるが、責めは大方医者の側に帰する。
それなりの立場の人達(医者&僧侶)がもっと声高にこの寝たきり老人の問題について意見を述べないといけません。
死は忌むだけのものではありません。ある程度生きる事が出来た後は、死は解脱、解放なのです。
病院、医者に近寄らない方が良い、と思っているものです。還暦を過ぎたわが身にとって、早期発見は無用の長物です。手遅れとなって悩む事なく解脱、解放されたい。安楽死とは言わないが、痛み止めの薬を出してもらえればそれでよし、と閑雅ている次第です。
父はアルツハイマー型認知症です。グループホームで昨年11月より生活をしています。今年に入り誤嚥性肺炎により2度入院治療を行いました。経管栄養をしていましたが、手を使って抜くので、胃ろうの造設をいたしました。
内容はともかく、よくおしゃべりをし、動こうとする父に、延命措置を絶つ選択はとれません。症状がすすみ寝たきりであれば事態は変わるかもしれませんが・・・ その上、本人の兄弟6人すべてが存命です。やかましい外野を相手にするのはほとほと疲れます。こういう現状もあることを考えていただきたいと思います。工場に寝かされてるだけではないのです。
私も病院に勤めていますが、以前の急性期の病院では、何の疑問もなく胃ろうの患者さんを看てきました。しかし、今の病院にきて、寝たきり、胃ろうの患者さんの多さに驚きました。なぜこんなにしてまで生きなければならないのかと疑問に思うようになりました。
日本人は親にどんな形でも生きていて欲しいと考える子供が多いです。医師もこのまま死なせるわけにはいかないと、胃ろうを進めます。確かに、治療がなければ、入院していることが出来ない医療制度になっているので、そう進めるのは仕方のない事ですが、そのまま食べれなくなり、老衰のように死んでいくのは駄目でしょうか。麻痺が残り、ご飯が食べれなくなれば、それまで。それでは駄目でしょうか。私の親はそれを望んでいますし、私もそうしてあげたいと思っています。日本の医療がもっと良い方向に向かって欲しいと思います。 また、一般人ももう少し先の事を家族で話し合う機会を作って欲しいと願います。
私は寝たきり老人を作る事を医師法・健康保険法で制限すべきだと思います。
現在を考えると日本の老人病院が寝たきり老人製造機となっていると思います。
医師が医療を考えれば自然に世界基準と進んでいくと思います。
企業家と化した医師が寝たきり老人を作り、人間の尊厳を踏みにじっていると考えます。
私の父も後1週間の余命と言われてから病院で鼻へ管を入れられました。入院時、除痛はお願いしましたが延命治療はしないように申し出をしました。幸い? 鼻出血がひどく鼻に管はできませんでしたが病院とはそんなものかと思いました。
「もう死ぬのだから」医師の判断でなんでも行う。いやな思いをしました。
静かに最後のときを迎えることを本人も家族も望んでいても、なかなか難しい問題です。
私は、家族に囲まれできれば自宅でそのときを迎えたいと思いますが医師の協力がなければ無理だと思います。
日本医師会は医師の生活レベルは一般人は数段高いレベルにあることを肝に銘じていただきたいと思います。いい意味の選民思想を持っていただき国民全体の生活を守っていただきたい。
胃ろうを含む人工栄養などの延命処置は双方が不幸でしょう。
大往生したけりゃ医療とかかわるな。「自然死のすすめ」中村仁一著幻冬舎新書新刊247は、医師としても、一般人としても一応は読むべき書物かと考えます。私個人、長らく脳神経外科医師としてつくづく、そのように思うことがありました。
但し、これもケースバイケースでありまして、医師のみが考えることではなく、国民全体がある程度のディスカッションの末にコンセンサスを得てからの方が良いと思います。今の現状では、医師が訴えられたり、訴えられぬにしても色々な非難の対象にされたりしかねません。
脳死の患者の臓器移植、認知症患者をターミナルケアを別枠の因子にて考える、望みのない悪性腫瘍患者のターミナルケアも、皆が一応は考えてみることでしょう。ターミナルケアを、医師は何度もみてきたもの、患者の家族は身内の死を直前にするのも始めての経験かも知れません。気管内挿管、気管切開、人工呼吸器装着、心臓マッサージ、胃ろう造設の決定を家族にさせることの意味が果たして重要なことか否か、中におかしな医師も混じっているのがこの決定をすんなりと決められない要素なのでしょうが。
意見の半分はその通りです。
しかし、残りの半分の大切な部分が欠けています。
いわゆる北欧で延命治療が行われていないのは、その費用が賄えない、はっきり言えば無駄だと考えているからです。所得税が50%以上あろうと、現在の北欧の度外れた社会保障を維持するのは限界があります。その為には、老人には早く世を去ってもらいたいのです。
その点を述べない北欧福祉論は良いとこ取りのまやかしです。
先生のおっしゃる通りだと思います。
生物は生まれたときから死ぬことが定められている。死ぬときは食べ物を自らの力で摂取できなくなったときである。自らの手で食べ物をつかみ、自らの口に運び、自らの咀嚼で飲み込む。この一連の動作ができなくなったときに私は死ぬ。それは明日かも知れないし、明後日かもしれない。しかし、それが私にとって一番望む死に方である。
しっかりと事実を提示し、わかり易く、端的な説明で重厚な問題を明らかにしながらしっかりと提言されているすばらしい文章です。結論には100%賛同申し上げます。
自分の親族も意識障害で寝たきり状態で、まさに尊厳、と言うことを考えるとこれでいいものかと疑問に思います。
さらに医療費と言うことからすると、本人の年金で100%賄われている状態なのですが、そういったお金は社会のために他にもっと良い使われ方があるのでは、とも考えてしまいます。
大変に参考になりました。ありがとうございました。
中村仁一氏がテレビや雑誌で書いていることの大切さを再認識します。
医療制度といつかは必ず訪れる死に対する考えを考える時期に来ているのだと思います。
終末期医療という言葉そのものが良くないのではと思います。
欧米に寝たきり老人が居ないということは当然で、人間の尊厳がしっかりと認識されているからだと思います。
我が家でも大人8名の意見が一致しています。
人口呼吸器の延命は拒否+口から食べモノが食べられなくなればそれ以上の延命治療は行わないということで、親子間の意思統一が出来ています。
医療機関の金儲け、或いは臆病な医者による延命処置は、マスコミ等の誤った人間愛による報道が大きな影響を及ぼしているものと思われます。
助かる可能性がゼロの場合は尊厳死を認めるべきで有るとも考えていますが如何でしょうか。
殺人であると訴訟を起こす医者も医者ですが、裁判所もきちんと意思統一をするべきですし、政治もしっかりとバックアップするべきだと思います。
ある本によると、仏では自分の手で食事が食べられなくなると、牧師の出番になる。書いてあった。
欧米に寝たきり老人がいないという記事を読み賛同するとともに拍手を送ります。もちろん一人ひとりの人生観が異なるのは当然ですが自分がもし、そうなったとしたら自然な終焉に向かいたいと思いますし、そう考えている高齢者は多いと認識しています。
人の死は一括りにできることではありません。
ですからこそ、一人ひとりがきちんと自分の最後をどう迎えたいかを考えておくことが必要です。
私は60代半ばシングルですが、延命処置はしないでほしい旨、明確にしています。
誤解を恐れずに言うなら意識もなく医療の力のみで生命を維持していることが生きているとは私には思えないのです。