さいころじすとポヨン ~子どものこころ・大人の心
2011年9月3日
たまごのある木

百珠(ももみ)は1994年9月30日に移植を受け、10月25日の2歳の誕生日を病院で迎え、11月8日に退院した。百珠の血液型は、O型からドナーであるヒロノリのB型に変わった。
8か月の入院中、僕たち夫婦は、「病院の看護師さんは天使みたいだね」とよく話していた。百珠の病棟の看護師さんは、医療だけでなく保育の仕事もしていた。
百珠が闘病中、お兄ちゃんのヒロノリが体調を崩し、ウィルス性髄膜炎で、百珠の入院している病院とは違う公立病院に入院した。その病院の看護師さんは、緊張感を漂わせずにのんびりと仕事をしていた。それは看護している対象の疾患と年齢がそうさせるのか、子どもを看ている親の意識がそう感じさせるのか、どちらなのかはよく分からない。親にとっては、子どもの病気は、必ず治るから大丈夫と安心して看ていられる方がいいし、本当は、病棟の雰囲気も緊張感がないぐらいがちょうどいいと思う。
でも、百珠とヒロノリの病気は、その深刻さが違っていた。
埼玉県立小児医療センターに入院していたがんの子どもたちは、病気自体が生命の脅威を感じさせるものだった。だから、看護師さんの言葉と動きは、親にとって、子どもの生命に直接かかわるとともに、病気の子どもの気持ちにも影響を与えるものに感じられた。実際、百珠にも親にも看護師さんは、何かあるとすぐ飛んで来てくれるし、時間がある時は百珠と遊んでくれた。
僕たちは、退院前に医師から再発の可能性も含め今後の話を聞き、医療スタッフ全員に心から感謝し、百珠は〈守られた世界〉から外に出た。
退院後、百珠は、しばらく自宅で過ごした。お姉ちゃんのハルカは、学校から帰ると百珠とよく遊んでくれた。百珠もハルカと遊ぶのを喜んだ。二人は、入院中の8か月を取り戻すかのように遊んだ。
百珠は、1995年4月から近くの私立保育園へ、そして、1996年4月から公立保育園へ通う。この時、3歳5か月になっていた。どちらも百珠が病気になる前に通っていた所だった。百珠は保育園を楽しんだ。私立保育園でも公立保育園でもお友達の中にいた。
退院後、1か月に1回病院に通う。病院では、前月の検査結果を聞き、再び同じ血液検査と尿検査を受ける。僕たちは、前月の検査結果を聞く度にドキドキしていた。検査結果に異常があったら、医師からすぐ連絡が入ることになっていたのかもしれないが、当時は、検査結果は1か月後に聞くものだと思っていた。病院へ通う頻度が、退院後2年目で2か月に1回になった。
僕たち家族は百珠を連れて出かけるようになった。百珠は、塾の遠足やキャンプにも参加した。冬は、背負子(しょいこ)に百珠を載せてスキーをした。百珠と一緒に過ごすことが、だんだんと僕たち家族には当たり前になっていった。
1996年3月ひなまつり 私立保育園
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僕は、百珠が小学校に通うことを想像した。ヒロノリとハルカは、放課後、学童クラブに通った。学童クラブは、家を挟んでちょうど小学校とは反対側にあった。そのため、小学校から学童クラブへ、家を通り越して行かなければならなかった。ハルカは、「遠いから嫌だ」と行くのを嫌がり、学童クラブを途中でやめてしまう。
百珠が1年生になるとハルカは5年生、ヒロノリは中学1年生だ。百珠は一人で家を通り越して歩いて通えるだろうか。それを思うと、僕が放課後の百珠を見てあげたい。そう考えた僕は、丹誠塾の仲間に相談し、自宅横にある家で丹誠塾大泉教室を開くことにした。教室の名前は、丹誠塾大泉教室ガロアにした。ガロアは若くして亡くなった数学者の名前だが、ガ行の音は、力強く固い音だ。そこが気にいって教室の名前をガロアにした。
1997年2月、丹誠塾の仲間や卒業生が総出で、自宅横の家の片付けに入り、ガロアの開設準備を進めていたちょうどその頃、百珠が体調を崩した。発熱し食欲が落ちた。僕は、流行りはじめたインフルエンザだと思った。
ガロアのスタッフと床を張り替える作業を、百珠は困ったような顔をして見ていた。「ちょっとだけここにいてね」と机に座らせると、百珠は足をブラブラさせた。力がなかった。
その夜、一緒にお風呂に入る。百珠のお腹が膨らんでいた。「ももちゃん、どうしたの?」とたずねても答えはなかった。「何も言ってくれないと分からないよ」と心配と苛立ちが言葉に混じる。百珠は歩きずらそうにした。
僕たち夫婦は、胸がざわつき始め、翌日朝一番で病院へ急いだ。外来診察室で、先生が口ごもりながら言う。
「再発です」
「今度の外来は、3か月後に」と言われた矢先の出来事だった。再発は、移植後2年以内が多いと聞いて知っていた。僕たち親は、病気の難しさと手ごわさを思い知らされ、覚悟を迫られた。百珠は、がん性腹膜炎を起こしていた。
百珠は、1997年2月17日、4歳4か月で再び入院し、主治医が僕たちに「1、2か月かもしれません。弱い治療をしましょう」と告げる。
そうかぁ、1、2か月かもしれないんだ。どうしようか――。妻は、ちょうどその時中学3年生を担任していて、入試を控えていた。僕たちは、百珠に寂しい思いをさせないために、できる限り百珠に付き添うことを決めた。
百珠は、入院2日後に個室に移る。「お兄ちゃん、お姉ちゃんに会いたい。いつお家に帰れるの?お兄ちゃん、お姉ちゃんも泣いているかもしれないよ」と百珠が言う。
その後、百珠は個室で寝る日が続いた。僕は百珠の隣で横になりながら、移植後2年での再発が多いと知りながら、インフルエンザと思い込んだ自分をどうしようもないバカだと思った。
ある時、百珠が僕に話しかけてきた。
「ねぇねぇお父さん」「うん?」
「お父さん、ももちゃんね」「なぁに?」
「ももちゃん、赤ちゃん生まれるかも」「えぇ、そうなの?」
「だって、こんなにおなか大きくなっちゃったから」
また、百珠が僕に言う。
「あのね、お父さん」「うん?」
「おねぇちゃん、ずるいよ」「何が?」
「アムロみたいに髪の毛がいっぱいあって、ももちゃん、これしかないよ」と、百珠がチリチリの短い髪をさわりながら言う。
「そうね」と答えながら、僕は、また髪を剃ることを決めた。僕は、百珠の骨髄移植前に一度髪を剃っていた。僕には、剃髪して「ほらっ、お父さんも、ももちゃんと一緒だよ」と言うくらいしかできなかった。
百珠のお腹は、がん性腹膜炎でパンパンに膨らんでいたが、徐々にへこんでいった。主治医が言う。「薬が効いているかもしれません」。薄皮をはがすように百珠のお腹はへこんでいった。
百珠は、ようやく個室から外に出ることを許された。個室から出られた百珠と僕は、手をつないでプレイルームへ行った。プレイルームには、車椅子に乗った脳性マヒの子がいた。百珠が「お父さん、クーピー持ってきて」。百珠は何も言わずに絵を描いた。そして、僕に詩を語った。
この木は何を表しているのだろう。たまごは、おなかの中の赤ちゃんなのか、百珠自身なのか。個室のカーテンの色はオレンジだったから、やはり、たまごは百珠自身か。木が左に傾いているのはなぜなのだろう。僕の樹木画への関心はこの時芽生えた。
臨床心理士になった今は、さらに意味を考えられる。ラケットのような木の形は幼さを示し、紙いっぱいに描かれた木の大きさは外向的な気持ちを表し、左への傾きからは現実の脅威である病気からの圧力を感じていることが分かる。木は百珠自身であり、たまごは百珠がお腹にいると思った赤ちゃんの命なのだろう。木は、お腹にいる赤ちゃんを守ろうとしてけなげに立っている。
1997年9月7日
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1997年12月23日 病棟手前の相談室
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1998年1月26日 外泊
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百珠は、抗がん剤が効き、体調を持ち直した。「もう一度移植を」という話も出たが、初めの移植前の治療で、片方の腎臓の機能が失われていることが分かり、移植は不可能になった。百珠に示された治療方針は、抗がん剤治療で腫瘍を小さくして、腫瘍を外科的に取り除き、放射線照射を行うというものだった。
百珠は、8月22日に手術を受ける。手術前、看護師さんに手術のことを本人に説明しておくように言われた妻が「お腹の悪いものを取らないと、またお腹が大きくふくれてしまうから切って取ってもらおうね。おばあちゃんも切って取ったから大丈夫だからね」と話す。
「切ったらそのあとどうするの?」「ぬってもらうから大丈夫だよ」
「ももちゃん歩けなくなっちゃうよ」「また、歩けるようになるよ。おばあちゃんも歩いているでしょ」
百珠は、手術したが、腫瘍を取りきることができなかった。また、腸が癒着し9月4日に再手術を受けた。
再手術後、食べられるようになった百珠は「ももちゃん、元気になったら、小学校行きたい」と言う。「そうだね、赤いランドセル買おうね」
百珠自身は、手術をすれば元気になれると思っていた。手術後、百珠は家に帰り、放射線治療のため外来に通う。骨への転移に対して放射線があてられ、検査のためにまた入院し、新たな転移が見つかり、そこに放射線をまたあてた。同時に、百珠の病気の勢いは増していった。百珠の具合はまた悪くなり始めた。
12月に入り、主治医に僕たちは言われた。
3つの方法が考えられる。1つは治療しないで家に帰り輸血を週に1回しに来る。1つは弱い治療をする。1つはもう一度よくなることを目指して強い治療をする。
僕たちは、3つの選択肢から3番目を選んだ。
いま思うと、この時、百珠にもハルカとヒロノリにも相談した方が良かった。結果的に百珠がきょうだいと過ごせる時間を少なくしてしまったように思う。
1998年2月8日
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1998年1月4日 病院 お正月で和服を着る
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病棟は、きょうだいにも配慮してくれた。初めは、病棟入り口前にある相談室で会えるようにしてくれた。次には、個室にヒロノリやハルカを入れてくれるようになり、きょうだいが一緒に過ごせる時間を作ってくれた。
それでも、子どもたちに相談していれば、百珠もハルカもヒロノリも、家で過ごすと言ったかもしれない。僕は、自分のいたらなさを思う。
外泊から病院へ車で戻る時、東北自動車道岩槻インターで降り、国道16号に出る。国道16号は、JRの上をまたぐ陸橋になっている。ある日、目の前にまんまるの月が見えた。その時、百珠は僕に、はにかみながら言った。
「お父さん」「なぁに?」
「ももちゃんね、お月さんにお願いしたんだ」「何を?教えてくれる?」
「恥ずかしい」「恥ずかしいって?」
「うん、あのね、ももちゃんね、完全退院できますようにって」
この頃、ヒロノリとハルカに「ももちゃんがもう長くは生きられない。死ぬかもしれない」と伝えている。ヒロノリとハルカには、一緒にお風呂に入っている時に妻が話した。
ヒロノリは、「オレの血をあげたのに助からないのか!」と泣き、ハルカは訳が分からない、信じられないという顔をしていた。
百珠は、外泊を繰り返し、だんだんと病院で過ごす日が増えた。
そして、4月20日、いとおしむように最後の息をして眠りについた。5歳6か月だった。
僕たち家族は百珠を喪った。
僕は子どもを喪って思う。百珠に「もう治らないんだ。ゴメンね。ももちゃんは病院にいたい?お家に帰りたい?」とたずねていたら、百珠は「ももちゃんどうなるの?」「お家に帰る」と答えていたかもしれない。僕たちが、3つの選択肢の中から、強い治療を選んだのは、僕たち親の願望で、百珠の願いではなかったのではないか。
百珠が生きていたら今年19歳だ。どんな子になっていただろう。今頃、ワイルズ君と会っているだろうか。
僕は、もう一つ思う。僕が死んだら、ももちゃんに会えるかも。僕は死ぬことがちょっとだけ怖くなくなった気がする。(ブログ完)
わずか3か月の間でしたが、ブログを読んで下さった皆様、ありがとうございました。
さいころじすと・ポヨンより
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- プロフィール
- 西尾温文(にしお・あつふみ)
- 臨床心理士。1954年、秋田生まれ。塾講師を経て、2001年より立教大学文学部心理学科に学士編入。専門は小児精神腫瘍学。順天堂大学医学部附属順天堂医院がん治療センター勤務。
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コメント
ハルさん
コメントありがとうございます。
なぎさ公園のそばに住んでいらっしゃるんですね。
日立港は大きく、「もも」号は小さく、テトラポットに乗り上げていた光景が目に浮かびます。
ブログをすべて読み返してくださったとのこと、うれしかったです。
ジプシー・チコさん
いつもコメントありがとうございました。
引き出しはたくさんあります。また、何かの機会にお見せできるとうれしいです。
みかさん
こちらこそ、コメントありがとうございました。
お孫さんをなくされたおばあちゃま
お孫さんをなくされたとのこと、つらい思いをされましたね。
「卵から、またつぎが生まれます」 いい言葉です。その通りだと思います。
コメントありがとうございました。
母ワイルズさん
ワイルズ君は9年間、病院とかかわっていたんですね。
僕は、ワイルズ君に移植室(無菌室)で会った時のことをよく覚えています。
ももみと同学年なんですね。今頃、ももみはワイルズ君に勉強を教わっているような
気がします。「お父さんより、ワイルズ君、頭いいんだよ」と言われそうです。
サッチーの友人さん
ももみが大変お世話になりました。
コメントありがとうございます。
マージさん
コメントありがとうございます。
子に思いや慈しみをつむいでいく、そのことが大人の責務だと私も思います。
ゆっぴーさん
ゆっぴーさんは、心の温かな優しい方ですね。
ゆっぴーさんに読んでいただけてよかったと思います。
ありがとうございました。
ぽよんさん
人生のいろいろな出来事をこのような形でみんなにシェアして下さったこと
本当にありがとうございました。
読んでいて、涙がとめどなくあふれてきました。
ポヨンさんの温かさとポヨンさんの家族の素晴らしさを感じました。
ポヨンさん、モモちゃん、ご家族の皆様に出会えて、本当によかった。
心から感謝の気持ちをこめて。
言い尽くさた言葉ですが子供は宝ものかけがいのないもの、それを再認識できたシリーズでした。震災、津波、原発と、死に関する事が災害の悲惨さの尺度でしかな語られなくなってきている。。あまりの多くの死に直面して、尊大なはずの死に対しての感覚がズレてきている昨今
こんな時にこのシリーズによって本来に戻り、死について真摯に向き合い、考える時を得ることができました。死を悼み、人を悼む。そのまに人は子から子へと想いや慈しみをつむいでいく。子育って?考えさせられました。ご苦労さでした。
サッチーに教えてもらい、ももちゃんに会いに来ました。
あの時、ももちゃんと、お父さんお母さんに出会えてよかったです。
そして今日またここで会えて、本当にうれしかったです。
私も、ももちゃんのこと、ずっと忘れられません。
初めて会った時から、こんなかわいい子、見たことないって思ってました。
今ごろ、お空で何をしているのでしょうね。
西尾さんの新しい歩み、心から尊敬し、応援しています。
ご家族の皆様もどうか、お体を大切にお過ごしください。
西尾さん、百珠ちゃんのお話を書いてくださってありがとうございます。
たくさん泣けました。
5歳の次女を亡くされて人生を今の道に変えられたことは伺っておりましたが、可愛らしいももちゃんのお顔や病状の経過を知ると貴方の心情を察するに余りあります。
県立小児医療センターは、本当にたくさんのドラマがあります。
ワイルズも9年間お世話になりいろいろなお子さんや保護者に出会って、なかには哀しいお別れも経験したりして、過酷で異質な世界のように感じたりもしました。
しかし、思えばみんな懸命に思考して生きている人ばかりでした。
幸いにも完治したお子さんは、きっと自分の人生をしっかりと歩んでいくことでしょう。
また、亡くなったお子さんはひとつの扉を開けあの世へ帰って行ったのだと思います。
この世での使命を終えて、ももちゃんとワイルズは楽しく過ごしていることでしょう。
クーピーでお絵かきをしながらふたりで大笑いしているような気がします。
ふたりは同学年ですが、あの世での先輩であるももちゃんが5歳ながらワイルズにいろいろ教えてくれているかもしれませんね。
残された私達は、親として子供の頑張りに恥じない生き方をしなければいけませんね。
西尾さんは、とても立派にそれを実行されていると思います。
私も負けずに頑張りますからね!
素敵なブログをありがとうございました。機会がありましたらまた、登場なさってくださいね!!
ももちゃんの命は ヒロノリさんとハルカさん、そしてご両親の中でしっかり受け継がれていると思います。
ももちゃんは5年6ヶ月という短い一生を終えられましたが、ご家族の中で彼女はずっと生き続けられていると思います。 ももちゃんはご家族からそれはそれはたくさん愛情を受けられ、それをしっかり感じた中で逝かれました。
親というもの、何をしても必ず「他の道があったのでは」と後悔をしますが、選んだ時はそれが最上の道だったのです。
私たち、いつかは死にます。愛されていることを感じて逝けることは、何よりではないでしょうか。
ただ、親より先に子供が逝くことは、親として自分の存在の根本のところでの悲しさがあるのです。 でも、人生、変えられないものは変えられません。
愛情というものをとても感じることが出来ました。有難うございます。
卵から、またつぎが生まれます。
ももちゃん 永遠に!
ポヨンさんがモモちゃんを見つめて来た温かい眼差しが、
多くの病院の子ども達に向けられていると思うと温かい気持ちになります。
貴重なお話をシェアして下さり、ありがとうございました。
毎回 楽しみに読ませてもらいました。
さいころじすと・ポヨン・・西尾さん!!
若い頃は とってもカワイイ イケメンでしたネ!!
そして、多趣味な事にも驚かされました!!
まだまだ沢山の引出しを持って居るんだろうな〜と思いました。
これからも沢山の子供達と親の 心の支えになって行って下さいネ!!
そして 百珠ちゃんの分も幸せに生きて下さい。
素敵なお話 有り難うございました。
ポヨンさん
ポヨンさんの大切な大切な日記を全て読み返しました。
私は、ポヨンさんの日記からたくさんの事を学びました。
そして、ポヨンさんが今のお仕事にどんな心を携えて向き合っておられるのかが
私の心に強く響きました。
生と死に向き合う子ども達とその家族に耳を傾け、寄り添う。
命ある限り「精一杯生きる」という生活を支援する。
この姿を、ももちゃんは誇らしく思っているでしょう。
ももちゃんのお船が最後にたどり着いた場所は、
私の住む村にあります。
お船のブログが掲載されてから、なぎさ公園に行くと、
ももちゃんが、来てくれたのだと嬉しく感じています。
3か月間大変お疲れさまでした。
ポヨンさんとご家族の皆様のご健康とご多幸を心から祈っています。